陶芸   若尾誠


soliloquy (独り言)

● 2018年 

  『第5回陶美展』 奨励賞 受賞

 

● 『第9回現代茶陶展』 TOKI織部優勝賞 受賞

             

   ●2016年2月26日 審査風景

 次点の「TOKI織部優秀賞」には、若尾誠さん ! かぁ〜

  リベンジは果たしたものの非常に残念であった。


● 『第8回現代茶陶展』 TOKI織部奨励賞 受賞
       

今回、初めて現代茶陶展へ出品してみました。
出来も良く、もう少し上の賞を狙っておりましたが・・・・・・・残念!


● 大織部展
   



● 美濃陶芸の明日展 2014 
       
 2000年に美濃陶芸永年保存作品として「粉青瓷輪花組鉢」選定された作品を久しぶりに目の前にしました。


●日本人が愛した官窯青磁
 東京国立博物館で、この青磁輪花鉢を再び目の前した!
前回は直接触ることが出来たが今回はガラス越し、自分の陶片を手に比べてみた!
                  


●ある陶芸家が語る
東京国立博物館の青磁輪花鉢(重文)に一番近い青磁は若尾さんの青磁だと・・・・


●第59回日本伝統工芸展
今年もギリギリの仕事になってしまいました!
いつもの事ですが、釉薬を掛けては窯の中入れて乾燥させ、また、釉薬を掛けては窯の中に入れて乾燥を繰り返します
小さな作品でも中・外を掛け分ける為、これがけっこう手間がかかります。
そして、完全に乾燥してから釉薬の厚みをカンナで削り調整してから窯詰めです。
ここでしっかりとした仕事をしておかないと釉薬剥離や釉薬ダレがおきます。
             


● 木箱
画廊やギャラリーで良いなと思うと作品を買うことがあり、そして、後日送られてくる木箱を見て稀にがっかりすることがある!
それは、作品は良いのに木箱が良くないからである。
私は、木箱も作品の一部じゃないかな?そんな想いから多少無理してでも、なるべく良い木箱を使うようにしている。
(しかし、この景気ではそれも無理かなぁ)笑


● 貫入ワレ
釉薬と素地の収縮率の関係で、釉が厚ければ厚いほど釉薬剥離をおこし
青瓷の宿命、貫入ワレもおこる!
釉薬は器の外側と内側を同じ厚さで釉掛けをする。
ちょうどサンドイッチのように同じ釉層ではさむ、このバランスが悪いと焼き締まるときの力の
違いから薄い素地はワレてしまう。


● 粉青瓷大鉢(日本工芸会賞受賞作品)
2009年東海伝統工芸展最高賞受賞作品をお買い上げ下さった方が、1年経った今でも美術部の人に会う度ごとに
「いいやらぁ〜俺の買った鉢、良い物を買った」と自慢されるそうです!
何でもその方は、いい物を沢山お持ちの様で嶺男青磁なんかも持っておられる様です!
そんな方のお眼に留まり喜んで頂けるとは作家冥利に尽きます。

● 窯変米色瓷
2008年の松坂屋本店(〜青への憧憬〜)展で初めて窯変米色瓷を発表した。
粉青瓷は還元焼成でおこなっていたが、作品にバリエーションが欲しかったこともあり酸化焼成の米色を
(窯変米色瓷)加えた。
それまでの還元焼成の米色瓷と区別するために酸化焼成の青瓷を敢えて窯変米色瓷とした。

酸化焼成による青瓷の釉色はうす茶になり土色も茶になる。
土は還元焼成による青瓷の土と同じかそれより鉄分を多く含む土を使用する。(口縁部が黒くなるから)

青への憧れから酸化焼成による青瓷をおこなってこなかったが、ピンホールが多く出たり大変だがその分やり甲斐がある。


● 青の変化
嶺男青瓷に出会い青瓷を始めてここまで来た・・・・
不透明な薄い青色(粉青色)を出そうと試行錯誤し何とかそれらしい綺麗な釉色が出るようになった。
しかし、数年前に直接ふれる事が出来た東京国立博物館の青磁輪花鉢(重文)!
恐ろしいほどの軽さに驚きました!
それは決して綺麗な青ではないが落ち着いた上品でやさしく優雅でまさしく幽玄なものであった。
ここ数年 一見綺麗な青瓷からいつまで見ていても飽きないそんな青瓷は出来ないものかと取り組んできたのが
現在の粉青瓷である。

● 日本伝統工芸展 入選
今回、久し振りの入選だが出品したりしなかったりでそれも仕方がない・・・・・・

想えば・・・3回目の入選がなかなか出来なくて どうせ入選が出来ないのなら自分のやりたい事(仕事)をしようと出品したのが
第42回の作品(粉青瓷直弧点紋大皿)である。
今までにない仕事、そして何処か獣に見えるそんな作品が受け入れられた事が嬉しかった。
それまでは審査員に受け入れられそうな作品ばかり作っていたような気がする・・・・
そして、何んとか正会員になりたいと出品し4回目の入選!
目標があったればこそここまで来れた、そんな気がする・・・・・

この度、第56回日本伝統工芸展に入選することが出来たが、東海伝統工芸展で最高賞を頂いたからと言って入選を保障されるものでもない。
そこが日本工芸会の良い所かも・・・・
今回の出品にあたり仕事がなかなか進まなかった、それは選外になってしまうのではないかというプレッシャーからである。
結局ギリギリ搬入になってしまった。

● 悩み
青瓷は釉薬が厚いぶん素地からのガス抜けが悪いのかガス抜け跡やピンホールに悩まされる。
特に作品が大きくなればなる程それはひどくなり作品がなかなか取れない!

そう言えば、南宋官窯陶片にもそういった物があるし嶺男作品にもあるから・・・・・・・・
青瓷の宿命かなぁ〜

● 土の大切さを知る
平成17、18年度に、重要無形文化財保持者による伝承者養成研修会が実施され、鈴木藏先生より「志野」の
指導を受けた。
                                   

それぞれが土型をつくり、一般に売られている土(志野用の土)を使い向付を制作することになった。
出来上がったところで先生が「どんな雰囲気になるか分からないだろうから、家の釉薬を使い家の窯で焼成してみる」と言われ、先生の貴重な作品と一緒の窯に我々の向付も入れて頂いた。
窯から出てきた向付を見るとどこかパットしない物足りないものであった・・・・・・?
そこで先生は「私が普段使っている土を使おう」と言われ、それで改めて向付を制作することになった!

(製作者が我々ってだけで、土・釉薬・窯 すべて鈴木藏先生のとなんら変わらないという夢の様な出来事であった)

窯出しの日・・・・窯から出てくる向付はどれも素晴らしく土が違うとこんなにも違うのかと驚かされ、改めて土の大切さを知るのであった。                                                                                      
● 粉青と青瓷
粉青とは不透明な薄い青色をいう。
その青色は、釉の中に含まれる微量鉄分が還元されて発色するが、素地に含まれる鉄分(赤土)も発色を助ける。
釉層は、染付釉などに比べ数倍の厚みをもち、釉中の細かな気泡は色に深みと潤いを与える。
そして、貫入(ひび)も青瓷の魅力の一つだ。

青瓷の瓷は、次の瓦と書く。
これは磁土を使用せず、あえて鉄分の多い陶土(赤土)を素地に使用するからである。

岐阜県現代陶芸美術館で岡部嶺男展が開催されていた時、九州から人間国宝の中島宏先生がお見えになり
「嶺男さんの偉いところは、磁器土を使用せず、赤土を使用した事だ」と話されました。
これはやった人だから言えることで、磁器土に鉄分を入れた青磁より、赤土(土物)の青磁の方が数倍難しいことを意味する。

● 第40回 東海伝統工芸展 日本工芸会賞 受賞
第40回東海伝統工芸展 初受賞で最高賞(日本工芸会賞)を頂いた。
第15回の初入選より一貫して青瓷の仕事をやってきた事が認められたようで嬉しい。
40回の歴史の中、約3分の2出品してきたことになるが、その間 悩んだり苦しんだりして数回出品しなかったことを記憶している。
しかし、ここまでこれたのも鈴木藏先生の「やればやっただけのことはあるから出品をした方が良いよ」のお言葉のお陰では・・・・・・・・

先月(平成21年4月)、そごう心斎橋本店での伝薪会展に足を運んだ時、私が画廊に入ると同時に荷物が届いた、それは岡部嶺男先生の粉青瓷花入であった!
なんたる偶然!
嶺男青瓷と若尾青瓷を横に並べて比べる機会に恵まれた!!!!!
それから数日後、今度は、台北の故宮博物院で若尾青瓷と南宋官窯青瓷をガラス越しではあるが、一昨年につづき比べることが出来た!
決して同じ物や写し・真似はする気はないが、それよりいい物が作りたいだけである。
ものまねは何処まで行ってもものまねであって決してそれを越せない。

● 陶片は語る
陶芸の道を志す時、陶片との出会いは大きかった・・・・・
美濃古窯の陶片を沢山もっている人が近くに居て、毎日のようにそこへ通い色々な事(美濃古窯の流れ)を教えてもらった。
この小名田町で白天目茶碗が焼かれた事や瀬戸黒の始まりがこの地である事など・・・・・・
25年も前だが、私も陶片が欲しくなり窯跡によく足を運び陶片から色々な事を知った。(土・焼成・作り)
しかし、あれだけある陶片だが焼けの良いのは殆どない。
国宝 卯花墻が生まれた程の焼けはそう何度もなかったのであろう。
 親父から家にも陶片(瀬戸黒・黄瀬戸・志野)がある事を教えられ、それを肴に美味しいお酒を呑んだもんだ・・・・古陶に学ぶ事は非常に
多いがしかし古陶を写しても意味がない。    
                       

● 粉青瓷をはじめた理由
昭和56年(1981年)10月、日本橋高島屋で利貞先生の個展があり東京へ行った。
先生には日頃から「いい物を(本物)観ろ」と言われていた為、東京で色々見て回りたいと思っていた、しかし「名古屋で良い展覧会がやっているから それを観た方が良い」と教えていただき名古屋へトンボ帰り
そこで観たのが松坂屋本店で開催されていた岡部嶺男展だった。
嶺男先生は志野・織部・黄瀬戸をやり青瓷へと作風が変わっていった・・・・・
私は何も最初から美濃の焼物(志野・織部・黄瀬戸)に拘らず、あまり人がやりたがらない青瓷をやり、そして美濃の焼物へと変わっていってもいいじゃないかと思い青瓷を始めた。

● 若尾利貞先生との関係  
「若尾利貞先生は御父さんですか」とよく聞かれる。
私の親父は若尾登で利貞先生とは従兄弟になる。
私から見ると小さい頃から知ってる親戚の陶芸家のおじさんである。