海綿鉄について

        加藤琢也さん(丸政二和製陶所社長)

 海綿鉄を作ったえんごろを探してみたが、なかった。えんごろは、磁器を焼くものを使った。直径30センチ位のもので、底に燃料を敷き、ブリキの丸い枠をたて、枠の中に鉄鉱石を枠とえんごろの間に燃料を詰めた。燃料には石炭を使ったか、覚えていない。工場は海軍の指定工場だから、鉄鉱石や燃料は海軍から作るのに必要なだけ来た。鬼板などを使ったわけではない。 このえんごろを、内の釜は高さ2メートル以上もある大きな角窯なので、間口に5,6本、奥行きに20本ぐらいも並べて積み、両側に6個ある焚き口から石炭をいれ還元炎で焼いた。石灰を使った覚えはない。 焼き上がるとえんごろを逆さにすると、海綿のように穴のあいた黒い海綿鉄が出てきた。えんごろの内側には鉄分が付いていたが、燃料は燃えているので、えんごろを割らなくても、海綿鉄は出てきた。海綿鉄はびくに入れて馬車まで運んだ。それほど重いとは感じなかった。当時、動力、絵付けなど15〜20人ぐらいの工場だったが、全員この海綿鉄作りに従事した。 私は窯業学校生徒で、多くの学生は日本碍子へ学徒動員されたが、父は昭和19年に44歳で海軍に召集されたので、長男の私は、追分にあった海軍省の指定工場の高島製陶所で午前中学徒動員として働き、午後はうちの工場で働くことになっていた。 海綿鉄は、軍艦の舳先などに使う特殊鋼だと聞いた気がする。 終戦後、えんごろは、鉄分が付いているから、磁器を焼くには使えないので、割って始末し、工場の梁などに付いている鉄粉は、水で洗い流した。 なお、高島製陶所では、B5の紙より少し大きめの薄い磁器の板を生産した。カク幕と呼び、ロケットの燃料に関係があると言われていた。 企業整理と統制 うちは「政之助工場」で、叔父の高吉は「早梅亭製陶」という少しは名のある陶磁器工場を経営していた。 企業統制令で、陶磁器組合の株を一定以上持った会社でないと存続できないことになったので、合併し二和製陶所西・東工場としてやっていくことにした。うちは皿を作っていて、陶磁器組合から割り当てを受けて「瀬922」の銅版の紙を貼って焼かなければならなかった。