ベルトコンベアで陶貨の選別を

                     鈴木宮江さん  (瀬戸市)

 子どものころ、吉田町に住んでいた。陶原小学校の5年か6年だった。 戦争がはげしくなる前は、運動場や森林公園にいもを作ったりしていた。うちの灰を肥料にした。戦争が激しくなってきてから、寺山町にあったトンネル窯で、のっぽこし(電柱につけるガイシの中に鉄の棒を入れる作業)にいった。それから水野駅の近くにあった瀬戸螺子で小さいネジを作った。瀬戸螺子では慰安の演芸があった。みんなで踊りあったこともあった。仕事をしたくなかったのでトイレによく行った。昼が待ち遠しくて、監督さんが「昼食にします。」と言われたら、みんなとんで行って、どんぶりばちの雑炊の多いのを早い者勝ちで選んだ。 瀬戸螺子にいたとき大きな地震(三河地震)があった。ガラスの音がして、みんなで防空壕に行って、しかられた。用水の水がどばんどばんとちった。
 地震の後、造幣局(工業組合=現中部電力のところ)にいった。工員さんがプレスした陶貨がコンベアで流れてくるのを選別した。えんごろを前において、厚さが薄いものを選別した。焼く前のもので木節のようなねずみ色みたいな色だと思う。みんなでベルトの前に向き合って同じような作業をした。 朝礼で明治天皇の歌を歌った。−あさい みどり すみわたりたるーというような歌詞だった。動員作業にはクラス単位で、健康なものはみんな行った。先生は八木きくえ先生。八木先生はなくなられた。娘さんも先生をやられているようだ。陶原小学校のすぐ下にみえた。 陶貨は造幣局で焼いていたと思う。1・5・10銭があったようだが、はっきりしない。 風呂場ができかかったが、終戦になった。 終戦の日、どういうわけだが知らないが、家に帰されて、天皇陛下の放送を聞いた。何かよくわからなかった。その後、会社へ行ったら、みんながかたまって泣いているので「けんかでもしとるん」と聞いたら、日本が負けたということを聞いて、またみんなで泣いた。女が外へ出たら、どうとかこうとうか言われた。それでびっくりした。あのあと艦載機が、さーっと下の方まできてひどかった。 作業は何カ月もたっていないと思う。 陶貨はどこかに埋めたと聞いた