愛知航空機動員学徒の手記9

そして、今
            柳井良子(東京女高師文科)

 私は名古屋のガイドブックを時々見る。東京駅から新幹線で二時間、港までは地下鉄もある。熱田、白鳥橋、一色大橋、多賀良浦、そして宝神、稲永。庄内川の河口は水鳥の観察地だというから、葦原は残してあるのだろう。それを見たい気もするが、行くときも帰ってからも、だれかに話そうとは思わない。
 卒業二十年のとき、クラスで記念文集を作り、有志が寄稿した。そのとき私は、初め全体のテーマを名古屋動員に絞ってはと提案したのだったが、賛否さまざまで、結局一般編と名古屋編に分けて纏めた。「いま書こう」「いまは触れたくない」「振りかえりたくない」人それぞれなのだと、そのとき悟った。
それから二十七年、いま私は心情的にはやや醍めている。しかし、郵送されたプリントを読むうちに少なからず心が動く。
 趣意書に「多くの仲間をB29の爆撃で喪いました」とある。そうだ、亡くなった方も随分あったのだ。私たちは石山・山田両先生に率いられ、神がかりのそしりを恐れずにいえば、松平先生の雷にも護られて、生死紙一重の、危ない橋を渡り切ったのか。
 資料の「設立時の会社の組織一覧」をもとに、同級生(当時33名)の職場を聞き出してみると、約半数が製造現場(永徳本社内の第五工場)、事務では職員課2、総務部の文書課2・庶務課1、労務部の給与課日勤係2・学徒課1、経理部の納品課2、医務部2、飛行部5が確認できた。一覧にないのは総務部の文書課.庶務課.労務部の学徒課で、飛行部は、まだ「検査部飛行課」。戦局傾く十八年夏から一年半余の急膨脹が実感される。私は職員課で、自分の手で飛行機の鋲一本でも打ちたかったのにと、不完全燃焼の日々を送った。
職員課の構成は課長・係長と書記が二人、書記補は生き字引の伊多波綾子さん、男女の雇員や挺身隊員もいて、学徒は寡黙な神宮皇学館のたしか一年生、金城高女のセーラー姿の中川さんと湯川さんが、なれた手つきでお茶をいれてくれる。与えられた作業は、社員の履歴力ードの浄書であった。おかげで、ご当地の難読地名を随分覚えたが、これはどう見てもエキストラの私たちのために作ってくれた仕事だった。新入社員(縁故などで随時採用)があると書類が出る。きまり文句の末尾は必ず「仰御高裁候」で、「秘」と白で書いた黒い紙挾みを小脇に当該部課へお使いに行く。「女子および女子学徒、疎開退避!」と来ないかぎり平時並みのOL風の生活だった。そのOLの眼で、上司として尊敬できたのは、係長の井東利三郎氏、キャリアの会社員の鑑ではなかったかと、今でも思い出す。しかし、この職場の話が通じる唯一の級友、武井みどりさん(結婚して吉野姓)は既に亡い。最後の病魔は癌であったが、動員中かぜをこじらせて肋膜炎になり、戦後、長い間結核を患ったことが、総合的な体力に影響しなかったはずはない。卒業二十年の文集に「これからが人生の第三楽章」と書いた彼女の交響楽は、未完成に終わってしまった。
 集合写真を見ると、彼女の姿もある。彼女の離隊の頃、まだ寒かったような気がするから、これは二月の就労記念撮影かと、裏を帰すと天長節と書いてある。やはり記憶は信用ならない。全員国防色の中に社長青木鎌太郎氏がひとり黒い背広姿、厳しい老創業者の風貌である。会社の暗称を「青葉」といったが、あれは青木の「青」だったのか?本社は青葉、瀬戸は青葉セなどと呼んでいたが……。
資料の「参考年表」には、さらに関心事が多く、もっと書きたくなってきたが、紙面は限られている。これだけ
でも、やっぱり書いてよかった。その機会を作られた企画の方々に、終りに敬意と謝意を表する。