愛知航空機動員学徒の手記7

名古屋動員
         高山きみ(東京女高師文科)

 ポンポンポンと、川面を行く蒸気船のエンジンの音で目が覚める。昨夜も一晩中、蚤に悩まされて、眠りに着いたのは明け方近かったのに、まどろみの中で聞くこの音は、何かホッとさせてくれるリズムであった。
昭和二十年の二月中旬、私ども東京女高師の学生は、学徒報国隊として名古屋の愛知航空機に動員された。庄内川の堤防のすぐ脇に・宿舎の宝神寮があり、毎日ここから徒歩で隊列をつくって堤防の上を南下し、目指す永徳工場へ通った。体育科の引率教官石山先生の指示で、歌をうたいながらの工程。島崎藤村の詩「朝」が行進歌であった。
 私の配属されたのは飛行部であった。この部は広い永徳工場の南端に位置し、庄内川の河口に近く二階建の事務棟があり、川岸には水上飛行機の発進できるスローブがあった。級友七名が、この建物の中で馴れない事務に当った。
 その時、級友がどんな仕事をしていたか記憶は定かでないが、工場での一日の仕事の成果、例えば、今日は何台完成機が出来たかなど報告されてきていた。飛行部部長、海軍監督官の部屋があり、大部屋に飛行部の技師、テストバイロット、事務の人々等、結構な大所帯であった。北大出身の斉藤さんとおっしゃる技師がおられ、技術的な論文を書いて私に清書するようにとのことで、彼のそのナメクジの這ったような筆蹟を苦悩して判読した。間もなく、大概の事は理解出来るようになり、大変重宝がられた.その中、斉藤氏より次兄野口正秋の話が出て吃驚した。実は、兄もこの愛知航空機の航空技師として、勤務していたのである。覚王山の兄の家に、お訪ね下さったこともあられた由。
偶々、事務にたずさわった私どもと異なり、現場に配属された級友は、翼の鋲打ちや、赤いテールランプのような部品の取付など、挺身隊や、他校の学徒に混じって、可成り肉体労働であった。
時には、
「事務の人は良いわね。」
と言われ、申し訳ない気持であった。
 戦局は愈々悪くなり、名古屋北部の三菱発動機が爆撃されてからは、装填すべきエンジンが届かなくなり、「首なし(エンジンの付かない)彗星」が、飛行部の前庭にずらりと並び異様な風景となり始めた。テストパイロットの卵の、若い男子が白いマフラーを靡かせて特攻隊に志願して出てゆくなど、風雲急の感があった。級友の一人は、
「こんな事務をしていては日本は負けてしまう。私は明日から現場へ行く!。」
と、宣言して事務棟から出ていった。その後、永徳工場も大爆撃を受け、防空壕に逃げこんだ私は九死に一生を得たが、数分の間に壕の外の景色は 一変し、目の前にあった建物は無くなり、工場の前を走っていた市電のレールは、あめの様に曲って、遥か遠くの建物の上にのっていた。沢山の人が爆死し、医務班の級友は死体処理に忙殺された。広島、長崎に特殊爆弾が落とされたと、取沙汰される日が続き、永徳工場は殆ど生産停止の状態となった。そうこうする中、とうとう、瀬戸行きの電車に乗った。八月十一日の事である。赤石山系の山の中腹に、トンネルを掘って半地下式の工場を作り、ここで飛行機を生産し、来るべき本土決戦に備えようという計画。瀬戸の町中の宿舎となった寺から毎日片道一時間余り歩いて山中の現場へゆく。酷暑を空腹の中でのこの往復もわずかな日数で、八月十五日を迎えた。山の小さ
な小学校の校庭で聞いた玉音放送。不思議と涙は出なかった。夕方宿舎に戻り、もう灯火管制の必要はないと、あかりの下で、各自大事にしまいこんでいた非常食糧を出し合って、ボリボリ食べながら、「これから日本はどうなるのだろう。」と、友と語り明かした日から、もう五十年経った。孫はその時の私の年令になっている。