愛知航空機動員学徒の手記6

暗黒の日々
          高木美智子(東京女高師臨教家体科V

 昭和十九年五月十七日、隼戦闘機に乗っていた三歳年上の兄が中支の空で戦死した。二十二歳だった。幸せだった毎日は悲しい日々と変り、私はただ泣いて幕らした。
 昭和二十年二月名古屋の軍需工場への動員が伝えられた。講堂で出陣式を終え東海道本線の夜行で早朝五時頃、名古屋駅へ到着した。途中、明るくなった窓外に見た浜松の家々が斜めに傾いている様を不思議な思いで見た。駅の地下広場のコンクリートの床で仮眠した。もちろん、寒くて眠れたものではなかった。
三月十日、東京は大空襲を受け全滅したと聞かされた。小石川のわが家も両親も兄弟もすべてなくなり、私は一人ぽっちでとり残されたのかと、どん底につき落とされ、絶望的になっていた。数日して三軒隣まで焼けて、幸いわが家は残り、家族は無事であることがわかった。しかし、五月二十五日の空襲で残りの東京は焦土と化し、わが家も全焼してしまった。
 六月九日、機雷や魚雷製作の愛知時計船方工場と発動機生産の熱田工場が空襲を受け、多くの学徒が殉難した。血の池が出来たといわれるその工場跡地は戦後ゴム会社と愛知県立熱田高校が建てられた。昭和四十五年から十五年間、熱田高校で教鞭をとった友人は校庭の隅にあった直径五米もの大きな穴が防空壕の跡で、暗く、水が溜り、人骨が残っているのだと聞かされたと話していた。
「五十年前の熱田空襲を知り、伝えたい」と、県立熱田高校の二年生が、学園祭で自作向演の劇「過去からの叫び、学舎は戦場だった」を上演した。空襲を関係ないと思っていた生徒も、戦争体験者の声を少しでも多く聞き同じ年代の子に伝えたいと思っている。
 空襲はますます激しさを増し、毎夜の行事となってしまった。栄養不足と一日の労働で綿のように疲れた身体もゲートルをはずす程度で、寝床に入りやっとあたたかくなると蚤の大群との戦いがはじまる。ある夜は、宝神寮も被害を受けた。川辺の土手の防空壕へ逃れ風上へ風上へ走った。ザザザーッという焼夷弾の音で近くの壕へ転び込む。中は水が溜り蚊が湧いている。念仏を唱えている人もいた。様子を見て壕をとび出る。風上へ走る。壕の入口にブスブス焼夷弾がつきささって花火の様に吹き上げている。布団で叩き消しながら走った。川には水柱が立ち大きな音がした。敵機が去り、焼けこげた布団をぶら下げて寮へ戻る途中で先程逃げ込んだ壕に火の手が入っていた。あのままいたら焼死していた。皆、バラバラだったが全員無事だった。六月二十六日仕事中、例の如く警報が鳴り、避難をはじめた。工場には軍の監督官が樫の棒を持って巡回していたが、その時は監督官の制止を振り切って工場の外へ走り出た。どこからどういう伝言があったのか覚えていないが、川の土手を川上へ向って走りに走った。爆弾が川の中で水柱をあげ、弾丸の破片がビューンとうなって耳をかすめ傍らの木に突きささった。沖の軍艦からとび立った艦載機は逃げまどうわれわれに機銃掃射を浴せた。何q走ったことだろう。何時か敵も去り、警報解除のサイレンが鳴り、気がついたら友人と二人で知らない土地に立っていた。
「今日も生きていた。工場に戻ろう」と町の中の電車道を工場方向へ歩きはじめた。周囲に人影が見えなかったような気がする。町はめちゃめちゃにこわれ市電はひっくり返り、レールがあめの様に曲って建物につきささっており、爆弾落下で大きな穴があいていた.爆風で死んだ馬が大きなお腹でひっくり返り、周囲は瓦礫の山で、工場も徹底的に破壊された。工場内の防空壕に避難した人達も、社員も沢山亡くなった。そして、すでに機能を失った永徳工場から瀬戸市の宝泉寺に疎開し、山の中腹の穴掘りの作業についた。十五日の放送で「負けたのだ」とか「これからが決戦だ」とか訳が分らなかったが、明るく電灯がつき、何年ぶりかで安眠出来て、うれしかった。