愛知航空機動員学徒の手記5

動員の日々を振り返って
                    杣松子(東京女高師家事科)

 一九四五年二月末,出発前の式で松平先生の不退転の決意を伺い、膝まで埋る大雪の中をリヤカーに荷物を満載して前引き後押しで大塚駅まで運び出発した。会社近くで、電車のレールが空を向いて大きく曲っていて驚いたが、地震でなったとのこと、会社の食堂の床も大きく波打っていた。寮は木造二階建、中廊下の両側が畳敷の部屋で、廊下は機銃掃射の時の避難場所だった。歌をうたいながら庄内川の土手を会社まで行進した。葦の芽立ちの頃で、日毎に変ってゆく枯葦と若芽のコントラストの素晴しさは、何よりの眺めだった。私どもは三人で会計課に配置され、仕事は主として、徴用されその後召集を受けた方たちの退職金の支払いと出張費の計算だった思う。夥しい数の未払い分の処理を懸命に続けた。
寮では夜も昼着のままだったが、警報が出ると、真っ暗の中でゲートルを巻き、防空頭巾、非常袋を持って土手の壕に走った。時には外で焼夷弾を避けながら解除を待った。名古屋の街やお城、大垣、岐阜が夜空を真赤に染めて次々と燃え上ったあの光景は今も忘れられない。昼間、警報が出ると、揺れる田圃の中の一本道をひたすら走ったが、機銃掃射を受けた時は隠れる物がなくて怖かった。熱田工場が爆撃された時は、解除後仕事場に戻った直後だったので、驚いて必死で走った。向うからB29がどんどん近づいて来る。落とした!真っ黒い弾が二つみるみる大きくなって落ちて来る。駄目だと思いながら腕を45度に上げて夢中で走った。手を45度に上げて、45度から外れていれば自分の所には来ない。と教わっていた。45度を越えた時、助かった!と、また走った。我に返ったら、教わったように目と耳を指で押え口を開けて道に伏せっていた。私は音を聞かなかったが、大きな音を聞いた友達も多い。空襲後、体育科の方たちは手伝いでほんとに大変だったそうだ。負傷者もトラックの荷台に並べて乗せられ、運ばれていた。その後、食堂には移しい数の遺骨箱が幾段も置かれていて、昼食でそこに入る度に言いようのない思いで一礼していた。私どもは時々お金を下しに熱田の銀行まで歩いて行ったが、熱田の二つの工場が爆撃されて、一ケ月位経っても道路の窪みには血が溜っているし、傍の川には躰の一部がまだあって怖かった。1トン爆弾二個で二千余人が犠牲になり、鉄骨は赤茶けて曲がり、廃嘘になった二つの工場を見て、爆弾(戦争)の怖しさ
に震える思いがした。私共の学校では、松平先生が手当ての甲斐もなくご逝去になり、大変悲しい出来事でした。
 学生は全員無事でしたが、先生が守って下さったのだと話していました。
瀬戸での宿舎はお寺で、空襲の時は納骨堂に避難した。半地下工場は土がむき出しで、ここで何が出来るのだろうかと思った。それから数日後の暑い日、小学校の校庭で「重大放送」を聞いたが、雑音で何も分らなかった。お寺に帰る途中「可愛そうに戦争が終った事をまだ知らないのだ」と話しているのを聞いた。お寺に帰り、戦争が終わったのを知り、がっくりしたけれど、一面ほっとした。
 無蓋の貨庫で真っ黒になっての帰省だった。九月上旬上京して付属高女の教室を宿舎にして、約一ケ月程学生に戻り、月末に先生と卒業生だけの卒業式を終え、敗戦直後の教職に就いた。
戦争末期の食事は肥料に使う豆糟入りご飯、すいとん、丸大豆の周りに米粒が申し訳けのように付いたもので、体調を崩す人も多かったし、夜は空襲が一、二回、その上一斉に飛び起きて蚤取り、昼間は仕事と避難、と大変な時代を頑張って生きて来たが、同じ戦争のために亡くなった方たちのことを思うと、痛恨の念を禁ずることは出来ない。