愛知航空機動員学徒の手記4


ああ、愛知時計!
                須藤鶴子(東京女高師臨教家体科〉

 今夜も着たままで眠りに就こうとしていると、愛知時計めがけて、またもやB29来襲の警報である。各自めいめい、掛ふとんを持って寮をとび出した。この掛ふとんは弾よけに、防寒に、そして部屋では真ん中に何枚も重ねて四方八方から両脚を入れて「人間おこた」にと随分活用した。
寮で一番の悲劇はのみの増殖である。毎晩毎晩「何十匹とった」と互いに殺した数をいい合った事が忘れられない。毎晩ののみの襲撃と空襲警報で、睡眠はままならぬ日々であった。
傾斜した寮の建物がよかったのか、機銃掃射を受けたが生きている。ほっとしてみると、寮の腰板部分に弾痕が鮮やかに連なってあった。この動員は毎日毎口が命拾いの日々であった。学徒動員で出征された方々のことを思うと、まだ内地であることはよかったといえるが、戦場と同じであった。名古屋は焼け野原という噂が流れ、汽車を乗り継いで見舞ってくれた、国民服にリュック姿の、いまは亡き父の姿が目に浮かぶ。
夜中、庄内川の防空壕目がけて走り、B29の機影を眺め、見ながら壕に入ったことも、焼夷弾のおちる様を見つつ飛びこんだことも、幾晩あったことであろう。かなり凄まじい音がしたが、音が去ったと思われてとび出してみると、まわりの葦がぽんぽんと燃えている。それをとび越え、よけつつ急ぎ士手にかけ上がり、こんどは寮へ向けて一目散に走った。途中、市街地の火災を見ながら。
 最大の心にショックを感じたのは、一トン爆弾があちらにこちらにと、すりばち状の穴をつくって、すぐ側の電
車の線路が飴細工のように天へ向けて舞い上がり、大きな馬が横たわっている姿であった。壕から出て、みわたす一変した町の有様に唖然とした。この日、愛知時計は集中的に爆弾を受けた。私達は五分の差で命拾いをしたのである。爆弾の地ひびきで、思わず壕の中で伏せていたが、上体をおこしてみると、壕の内側の周囲は、ひびだらけであった。それでも、この日私達が生きておられたのは五分の勝負であったと思う。引率者の判断と指示のおかげである。門衛は、私たちが出て行こうとするのを【度は制した。しかし、私達はそれを振切るようにして逃げた(逃げたの表現は適切ではないが本意であったと思う。)。逃げることが出来た。このことが、本当に生きる喜びを味わわせているのである。
 私達の部隊は瀬戸へ向かった。B29の爆音を遠くに聴きながら、暑い炎天下、木の枝をカムフラージュに戦闘帽の上に乗せて、トγネル内を通った。この中が工場かなと思われたが、目に入る機械は一台、そして、随分歩いて、さあ、あったのかどうか少々忘れてしまったのであるが、これが工場かと思ったことを覚えている。とにもかくにも、生きていることが不思議と言えるような戦争経験の日々から、はや五十年、引率の教官の死や、同じ学生である動員学徒の死を思うとき、}日たりともおろそかに出来ない日を過ごさねばならないと、今日も、充実の日を精いっぱい生きているのである。