愛知航空機動員学徒の手記3

朝は再びここにあり
                     大原瑛子
                     山田紀子(東京女高師文科)

 前夜の大雪でひどく底冷えのする東京駅を後にしたのが昭和二十年二月末、私たちは学徒報国隊の隊員として「愛知航空」へ出発した。直前の学校側の説明によると「上からのお達しで名古屋行きが決まったこと…国威宣揚…女子学徒も総力をあげ、生命をかけて働いてほしい…」という主旨。戦局の情報にうとい私たちは、まだ学校に残り学んでいることへの後めたさもあり、疑わずこの名古屋行きを受けとめ奮起した。一年足らずの学生生活はこうして軍需工場の工員生活へと一変した。
私たちの寮は港区宝神寮、庄内川沿いにあったが一ケ月程前の三河地震のためか寮全体が傾いており、廊下はスロープ状、窓も戸も満身の力でしか開閉できない粗末な所であった。私たち二人の職場は簡単に名簿順でふり分けられた医務部衛生課であった。特攻機「彗星」の翼の鋲打ちをする現場の級友にくらべて臨場感が足りないと少々がっかりした。しかも、私たちは窓口業務で社内間の電話の取りつぎ、軽傷者の治療、調合された薬を渡す、洗えぱまだ使える包帯を干したり巻いたり、大きな行事といえぱツベルクリン反応の時多くの工員さんを手際よく捌き、それでも人手が足りないと、私たちも軍医の手ほどきを受け注射を打ってあげた。何の資格もないものがいいのかと思いながら緊張した一日であった。まもなく工場は昼夜を分たず激しい空襲に見舞われるようになった。出勤途中と言わず、勤務中と言わず、私たちは数えきれないほど防空壕に避難した。やがて襲来してくる飛行機の爆音の高低や、爆弾落下の際の重圧感で、壕に近いかどうかが分かるようになって少し余裕ができた。
 しかし何といっても医務部部員として極限状態に置かれたのは、六月九日の午前中の、空襲警報解除後に落とされた大型一トン爆弾の悲劇であった。防空壕から這い出て来たばかりの私たちの身体の中を震動が突き抜けたかと思うと、一瞬にして地下水が噴き上げた。立っている事も、伏せている事もできない数秒の後、私たちの壕への直撃でない事がわかり正気に返った。少し離れた防空壕が無漸にこわれ工員さんや学徒の方たちが何人も爆風で飛ばされ亡くなっていた。
 大怪我で呻いている人、手がない、足が片方ちぎれている、何かわからない肉塊も目の前にある。私たちは地獄というか修羅場というか見た事のない光景を寸時にして体験した。やがて、茫然としている私たちに上官から「死体運びのトラックに乗ってもらう」と声がかかった。私たち二人は一枚の戸板と手袋を渡され、男の方たちがスコップですくい上げる死者の、寸断された身体の部位を板に乗せトラックの荷台まで運ぶ役目であった。たしか小物運びと言われたように思う。私たち二人の背丈の違いから戸板の上の骨や肉塊が低い方へ、低い方へと転がってきて、その異臭とむごたらしさに顔が引きつった。モンペ姿の女子挺身隊の無傷の死体があった。思わず「この人は生きています。」と二人で叫んだら、トラックから「髪のピンが爆風で首に刺さって即死したんだ」との事。黙って合掌した。さらに追い打ちをかけるように、割箸と受皿を持って、残った建物の壁にへばりついた肉片をこそぎ取りに行かされた。つらかった。それから何日も私たちは食欲も、気力もなく、どんな時間を過ごしたか思い出せない。
 戦局は日毎に悪化し、雑音まじりの玉音放送を移転先の瀬戸の山寺で聴いた。私たちの動員の半月前、連合国側はヤルタ会談を終え、日本の敗北はほぼ明白になっていたのである。何の事はない、私たちは、行進歌であった「朝は再びここにあり」をテーマソングに「愛知航空」という舞台で六ケ月も負け犬が悲劇を演じていたのだ。