愛知航空機動員学徒の手記2

名古屋ー瀬戸動員中の思い出
                   井合千枝子(東京女高師家政科)

庄内川が海に入る手前の草土手を、女子学徒隊が隊列を組んで整然と歌いながら行く。
「海ゆかば、水潰く屍。山ゆかば……」「名も知らぬ遠き島より、流れよる、椰子の実一つ……。」
工場支給のヨレヨレの戦闘帽に、脚にはゲートルを巻いて、脚が割箸のように細い私には、ゲートルはずり落ちてなじまず.大きらいだった。救急袋を肩からかけて勇ましく見えた。これが私共女子学徒隊の通勤風景だった。
「新じゃが十五コ」や「切り干し大根の煮つけ一皿」が食事では、いつも、おなかはペコペコで、食べることばかり考えていた。だが、みんな美しい顔で、ひもじいなどとは一言もいわなかった。だって、みんなが、そうなんだから。土手に一箇所、高射砲の陣地があった。少年兵が四、五人、網に草を入れて被り、高射砲にも被せて射つのだが、当たったことがない。「威嚇だけなんだって。」何ともやり切れない気持ちになる。空中戦では、特攻機は、敵にぶつかっても、うすい煙を残して落ちて行く。
工場に着いて、それぞれの部署につき、私は配属になった学徒課へ行く。ここでは、大学生、女子師範、可愛らしい中学の二人の少年が、私と同じ仕事をしていた。主に学徒隊のつきそいの先生方に旅費を出す仕事だった。一日が終わると、稲永新田の宝神寮にたどりつき、蚤と格闘がはじまる。敷布団のまわりに、蚤取り粉の土手をこしらえた。蚤の数は数えきれない程で、ものすごいなどという言葉では、あらわせなかった。そして雨の日は、大変だった。廊下にはバケツ、空かん、洗面器が並び、部屋の掛け布団の上に洗面器が乗る。雨水のはねかえりで、周り中ビショビショだった。
屋外は小ぬか雨でも屋内はドシャ降りだったよ
などと、笑うしかなかった。
またここの水は塊分が多く、飲み水や洗濯には適さず、飲み水は中央棟のポンプだけだった。
次第に敗戦の色濃厚となり、名古屋は空襲でボロボロになり、女高師隊は、瀬戸へ疎開することになった。瀬戸は街の中央に川が流れ、両側に瀬戸物屋が並んでいた。川の水は、陶土で乳白色だった。瀬戸の地下工場は陶土を掘り取っただけの穴ぐらに作業台を置き、設備もなく仕事にはならなかった。
宿舎は、お寺の本堂。仕事もなく、ただブラブラしていたので、同級生のSさんに誘われ、お寺の事務棟を探検しに行った。廊下を歩いていた時、襖が開いて、住職に声をかけられた.「あなた方はどこの学校から」などや、
「それは大へんだ。しっかり勉強して下さい.」
と、友人には厚手の冬茶碗、私には薄手の夏茶碗を下さった。ずい
ぶん引越しをしたが.大切な私の宝物の一つだ。終戦のこの時に、名古屋、瀬戸と、私が生きてきたあかしとして。
瀬戸に移って五日目の正午、寺の本堂の前庭に集まって、玉音放送をきいた。泣いていた人もあった.私は全身の力がぬけていくようだった。長いサーベルに、黒長靴の憲兵の言葉が頭をよぎった。「お前達は、庄内川の土手を上陸してくる敵を、一人でも多く竹槍でやっつけるんだ。」単純な私は、ほんとうにそうだと思っていた。自分が先にやられることなど念頭になかった。でも、竹槍合戦なんてそんなことは起きなかった。
学半ばに逝った学徒の方々。
勉強することを思い起こさせて下さった住職さん。あの竹槍の憲兵さん。等々、皆様どうしていらっしゃるで
しょう。五十年経った現在もふと思い出す。あの人は現在……と。