愛知航空機動員学徒の手記1

思い出すままに
            安達輝子
                  (東京女高師体育科)
昭和二十年二月某日、身の回りの必要なものをまとめ、リヤカーで大塚駅まで自分達で運んでチッキを送り出した。名古屋動員の用意である。粉雪のちらつく日だった。
庄内川河ロに近い愛知航空宝神寮に着くと早速国防色の上着とズボン、戦闘帽にゲートルそして編み上げ靴が支給された。男のような出で立ちで女高師生は三つの小隊を組み、歌に歩調を合わせながら庄内川の土手を工場まで通う毎日が始まった。
私は下級生のKさんと二人で医務部の庶務係に配属されたが、飛行機に直接関係した部署ではないし、椅子と机は与えられたものの、これという事務が待っていたわけでもなく物足りなく思った。しかし、名古屋に空襲のあった翌日は仕事があった。それは半焼、全焼、重傷、軽傷など、職員の被災状況を記載するという喜べない仕事だった。度重なる空襲の被害に、誰もが驚いてはおられなくなっていた。被災者はとうとう順番がまわって来たのだと諦める他はなく、まわりもそう慰めていた。何とも残酷な話である。
その頃、あちこちの現場でも既に器材が不足し仕事がないと言うことだった。ある日、動員学捷全員が工場の広場に集められ、願起大会が開かれることになった。各学校一名ずつ出て、決意をのべ士気を高揚させるというもので、私はその役を言い付けられてしまった。苦手だが最上級生である、仕方がない。高く組まれた壇にのほり
「……本土決戦の覚悟を……一機でも多く戦地に…・:」声を張り上げ、ようやく終わると、戦闘帽の鍔に右手の指先をぴっと当てて、軍人のように挙手の礼をした。しかし、実態の伴わない現実に空しい思いだったことが忘れられない。この日は軍部による動員学徒の状況視察があるので、このような形がとられたと囁かれていた。
空襲で、一番敵を憎く感じたのは、敵機が手に取る様な低さで飛んで行くのを見た時だった。あの夜は市内の爆撃を終えたB29が、高射砲の反撃を避けるため、低空で来て庄内川河口から帰って行く。そのため、私達の上をかすめるように低く飛ぶのである。
しかも、防空壕からそっと覗いてみると、油脂焼夷弾がそこごこに落ちていて土手の草がちょろちょろ燃え出し、油の匂いがする.その明かりで翼の星のマークが大きく見え、操縦士まで目に入って来る。そんな近さを敵機が悠々と、一機ずつ来ては飛び去って行く。
私は悔し涙がこみあげ、思わず防空壕から飛び出し、夢中で、防空頭巾で少しでもと火を叩き消した。焼夷弾の余ったものを、その辺りに落として行ったのであろう。それは今も目に浮かぶ屈辱的な光景である。
真夏が来ても、私達のゲートル姿は変わらなかった。袖を折りまげて暑さを凌いだ。猛暑ではなかったことがせめてもの救いだった。
八月十一日、瀬戸工場へ疎開し宝泉寺の本堂に移った。今度こそやり甲斐のある職場をと期待していたが、まだ配置も決まらないまま十五日になり、全く思いもよらない「終戦の詔勅」が下ったのである。
動員に明け暮れ、四年生の大切な教生という課程もなかった私達に、繰り上げ卒業の九月が迫っていた。しかし、日本がこの先どうなるか誰にも全く予測は出来なかった。十八日、一旦帰省して指示を待つことになった。約一ヵ月後、卒業式の通知を得て上京した。まず寄宿舎の焼跡に行き、私の「竹の一室」と思われる辺りに立ってみた。想像通り留守中置いてあったもののすべてが灰儘に帰していた。見つめているうちにコーヒー茶碗の欠けらが落ちているのに気付いた。思わず拾い上げると、気に入りだった柄がはっきり見られ、まぎれもなく私のものだった。