水野のトンネルで脚を作ろうと

       南 周三さん(名古屋市港区 当時愛知航空機稲永工場 組長)

 現在スポーツセンターがあるところや、その南のスリップまで稲永工場で、工員は北の工員用の門を入ると、地下通路を通って作業棟まで行くようになっていた。私は稲永工場の東南にある棟で、鉄で脚を作る指導工員だった。

 熱田工場は、爆弾を受けて大変な死者が出たと聞いた。妻の弟は、1回目の爆撃のあと工場へ帰るのが遅かったので、2回目の爆撃にやられず命が助かったと聞いた。350軒ほどの社宅も燃えてしまい、中村区の家内のお姉さんの家に同居させてもらった。

 私たちの棟は、焼夷弾はたくさん落とされたが爆弾は落とされなかったので、被害は少なかったが、地震でコンクリートの床はガタガタになり、仕事ができなくなり、ある日突然瀬戸工場へ行くよう命じられた。

 陶器工場の倉庫に1ヶ月ぐらい住んだが、風呂も入れず、シラミがわき、名古屋の家に帰ったときは、家の前で服を脱いで、裸で家に入った。

 瀬戸工場はトンネルで、脚を作る正面盤(?大型の旋盤)を運び込んだが、運転するかしないかする内に終戦になり、水野小学校の運動場に数百人が座って天皇の声を聞いた。