大八車の死体がズルッと

        内田幸男さん(名古屋市緑区 当時愛知航空機船方工場職員)

 1回目の爆撃が過ぎて、みんなが帰ってきたとき2回目の爆撃があった。私も工場内の壕へ逃げ込もうとしたが、壕はいっぱいで入れず、入り口付近に伏せて命だけは助かった。森後町の下宿も焼けてしまったので、工場の事務所の2階の監督さんのベットがあいているのを借りてそこで寝泊りした。工場の中は大きな穴があき、水道管が破裂して水がたまっていた。

 夜中に火がまた燃え出したので、消そうと思ってホースを引っ張ったら、ホースが引っかかって大八車が傾き、昼間みんなが片付けかけて、大八車に乗せたままの死体が、ズルッと滑り落ちてきた。

 稲永工場に大林組の作業場があり、そこで棺桶を作ってもらい、トラックで運んでくるに、自分の座る余地がないので、棺桶に入って熱田工場まで来た。

 棺桶に死体を詰めて、一宮方面に運び、そのまま焼いた。

 何日かして、女の人が子供を連れて、「うちの人がまだ帰らない。」と言ってきたので、各地の病院を連れてまわった。今の博物館になっているところに市民病院があって、そこで並べてある死体の中から見つけて、「お父ちゃんだ!」と子どもに見せていた。