巨大な坑道式(地下軍需工場)と覆土式軍需工場建設に参加した学徒の証言

                                    栗田京三さん(春日井市)

今次大戦の中で有名な長野県松代の大本営壕よりも規模の大きい坑道式(横穴式)地下工場がこの愛知県で建設されたことを知る人は少ない。この地下工場は現在の瀬戸市水野地区(くわしくは水野村上水野水野国民学校の裏山付近で5ヶ所、総延長4qに及ぶものであり、さらに現在の菱野団地(旧幡山村地区)に木材で骨組みを作り、カマボコ型にして、その上に、アブラ紙、杉板をかぶせ土をのせ米軍の空襲をのがれるようにした覆土式組み立て工場が建設されていた。

 もともと地下工場と組み立て式覆土工場は愛知航空機の瀬戸工場用地として海軍横須賀鎮守府所属の海軍設営隊306部隊(大内成之海軍大尉)が主管して朝鮮人、労働者、囚人、徴用された大工さんと学徒によって建設されたものである。昭和19年7月に建設のために部隊が編成されていた。部隊本部は陶生病院前の旧制県立瀬戸高女で、技術士官や工作兵たちが数百人駐屯した。建設に動員された学徒たちは、陶原小学校に宿泊した。(教室にフトンをしいて寝た。清掃もあまりしなく、入浴もほとんどしないので、シラミになやまされた)

当時の東海軍司令部では、「愛知航空機瀬戸工場」と呼んでいたが、学徒や民間よりの徴用動員による労働者たちには、あくまで大内部隊協力要員として愛知航空機などの名はひとことも言わせなかったし教えられもしなかった。

水野地区の地下工場建設と併行して愛知航空機の瀬戸工場は、瀬戸焼の陶器工場を軍需工場に転換して名工大の前身の愛知工専や名古屋理科大(名城大の前身)に瀬戸高女の学徒たちが軍需部品の生産につとめていた。(工員さんたちと)

 幡山中の生徒が調査し模型として作成した覆土式半地下式組立式のものは、セメントで固めたものではなく、当時、資材のないところから、杉皮をはって建設したのが本当である。

私が参加したのは、地下工場建設はたった一日だけで、学徒隊は幡山地区の覆土式工場建設が主体であった。坑道に使う杉やヒノキの丸太の運搬は体力のない学徒では、無理と思われたのか,殆ど工作兵に朝鮮人、労務者、囚人が作業の中心であった。(欖木の梁に使う丸太は直径30cm以上あった。)

覆土式のカマボコ式のものは、堅い鉄道のまくら木や、杉丸太で、現在の園芸ハウス型の枠をつくり、チョウナで削り、枠木を組み合わせ、カスガイや五寸釘をつかって接合部分に厚手の板をはった。

覆土式のものでは、カマボコ式だけでなく、山の斜面を削って山のようにみせかけたものも作った。

 私が動員されたのは、勤労動員先のワシノ機械名古屋工場(昭和区高辻)が昭和20年3月12日の空襲で焼失したために、家が焼失しなかった者の家に連絡があり、先行者は3月20日で、東区(現在の泉地区)にある書家の佐分移山先生の息子の佐分哲先生のやしきに、フトン一ながれと、日常着替え用衣類、洗面用具を家の者に運ばせて、午後4時に終結、大内部隊からの軍用トラックで宿舎の陶原小学校へ向かった。海軍は陸軍とちがって麦飯主体の食事であったのが、後日、いろいろの人からきいた所、設営隊は食料が良い方だったということである。学徒は、愛知県立商業学校の3年生1クラスと、私たちの愛知県立貿易商業学校4年の1クラスだけだった。建設作業は午前7時から日の沈むまでで、地下足袋が支給された。起床5時、消灯午後9時。すべて海軍式号令で行動した。学徒隊や、徴用大工さんたちを統率指揮する人は、大内部隊の上等工作兵の人で起床から就寝まで軍隊式の号令で、「総員おこし15分前」などの号令を今だにおぼえている。作業では、覆土工場の統括は、予備士官の20代の少尉で、その下に、二等工作兵曹(陸軍の伍長)が4〜5名指揮した。時々、大内部隊の副官(大尉)が、オートバイに乗って巡察に来た。私たちは、3ヶ月間、6月末まで作業に従事した。この間、体格の大きかった私を含めた学徒5人が測量技師の補助要員に選抜され、木箱で作った弁当箱に麦飯をつめてもらっい風呂敷につつみ、陶原小から上水野にある水野国民学校の用務員室まで歩いて往復した。測量技師は、関西人の教養のある当時45〜46才ぐらいの人、3名がいた。測量用具をかつがされ、水野地区の山々や農道等、軍用道路作成の測量の仕事を手伝わされた。時には曽野の稲荷の方まで行った。この動員作業中、完成した地下工場には一歩も入ることはゆるされず、中の様子は軍機密として、このことに関して話をすることは固く禁止されていた。消灯後、どこからか聞こえてくる「アリラン」や朝鮮語の歌声が上がると巡検にあたる工作兵がえらい勢いで、ドナリつけ叱っていたのでおぼえている。入浴は陶原小近くの銭湯が軍用に使われていた。5月14日の名古屋空襲の日、敵機が現在の海上の森上空ぐらいの地点に落ちていくのを目撃して、手をたたいて喜んだことが思い出される。5月27日は海軍記念日で、旧県立瀬戸高女の運動場で設営隊の軍人は第一種軍装で、学徒、徴用人員も一緒に式典後、演芸会が行われた。学徒代表は愛商の生徒が「高原の旅愁」をうたい、「伊那の勘太郎」や「あかつきに祈る」などの歌が慰問団の人がうたってくれた。当日は、たしか、赤飯と、殆ど肉の無かった豚汁が出たように思う。陶原小学校近くの一文菓子屋や、上水野地区や中水野の方には、当時としては珍しく、「いもあめ」や「ところてん」も売っていた所があった。時々、測量の帰りに買って食べた。瀬戸高女の大内部隊の士官室[准士官(兵曹長)以上]に入ったことがあるが、銀メシ[白米]と[豚肉のステーキ]を大きな食鑵[食料入り]に入れ、従兵が運んでいるのを見た。水野駅の近くには、大内部隊の食糧倉庫があり、カマス(麦だわら)に入った煮干の「イワシ」や砂糖の[ザラメ]が山のようにあったことが目に映る。

 幡山村の覆土式建設の場所は、実に自然の風景が楽しめた。戦中でありながら山ツツジが咲き、小鳥のさえずりを聞き、労働の中に、一つのやすらぎをおぼえた。宿舎から幡山村の労働現場までは、陶原小学校から丘陵地[低い山道]を辿って歩いて往復した。