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愛知航空機と「特殊攻撃機、晴嵐」の思い出  後藤(旧姓 林)松夫さん(海部郡)

 今年も、また太平洋戦争開戦の日、十二月八日がやってくる。最近はマスコミもこの日のことを、あまり取り上げなくなったが、私にとっては少年時代を通じもっともショックを受けた日であった。当時私は国民学校の高等科二年生、三歳で母を、六歳で父を失って、それ以来遠縁の家で世話になっていたが、その日はアルバイトの新聞配達を終わって、学校へ行くと何か様子がおかしい、聞けば大本營発表で米英軍と戦争になったとのこと、私はそれまでに、第一次大戦のドイツの内情を書いた『四面楚歌のドイツ』とか、未来戦を予想した『日米もし戦わば』といった本を読んでいて近代戦の実態をある程度、理解できたので、これはこれは大変なことになったと思った。当時の政府は日本は神国で、正義の戦争をするのだから神の加護によって必ず勝つと、精神力さえ強ければ、戦争に勝てるようなことを言っていた。

 昭和十七年三月、高等科を卒業した私は愛知時計電機株式会社へ入社した。そして研究部設計課兵艤係に配属された。ここは海軍用試作航空機の兵装と艤装の設計をする部署である。それと同時に愛知時計電機青年学校の生徒になり午前中に学科や軍事教練を受け午後は設計課に帰って製圖見習工として働いた。その頃設計課で手がけていたのは水上偵察機「瑞雲」試作機体名『E16A1』、艦上爆撃機「流星」『B7A1』で、まもなく特殊攻撃機「晴嵐」『M6A1』も並行して設計作業することになった。

 昭和十八年になって、愛知航空機株式会社が設立され愛知時計の航空機部門は新会社に移行し設計課もそれまでの愛知時計船方工場の研究館(鉄筋コンクリート4階建ての建物でああるが、昭和20年6月9日の[B29]による空襲で1トン爆弾が地下室まで貫通し地下室に待避していた人が、全滅すると言う悲劇の建物である)から、新設の永徳工場内の木造2階建ての建物に移住した。名称も技術部試作設計課とかわって、我々は技術部長五明技師、試作設計課長松尾技師以下全員が試作機の早期完成をめざして仕事にはげんだ。

 昭和18年11月、晴嵐の第1号機が完成した。しかし当時は秘密で、設計課員でも大部分の者は何も知らされなかった。戦後、雑誌『丸』の第15巻・第8号の特集記事、『海底空母と晴嵐』によれば、開戦間もなく海軍司令部は、敵の制海権下の米本土西海岸への潜水空母ともいうべき大型潜水艦に特殊攻撃機を搭載して奇襲攻撃を行い、パナマ運河の閘門を破壊して米国大西洋艦隊の太平洋への回航を阻止するとの構想で、特型潜水艦と特殊攻撃機の建造を艦政本部と航空本部に検討することを命じた。その結果、伊号400型潜水艦18隻の建造と特殊攻撃機M6A1の試作命令を受け主任設計者に尾崎紀男技師をあて、また途中で浮舟つきの水上機案が確定してからは、小池富男技師も浮舟設計を担当した。潜水艦搭載用として、なるべく小型に折りたたみ、および分解ができ、かつ急速に分解組立が出来ることが要求されたことは勿論であるが、反面、強力な強襲用攻撃機として魚雷1または800キロの爆弾が搭載でき、後席に、13ミリ旋回機銃を備えた。

 私たちの兵艤係は爆撃兵装担当と射撃兵装担当、それに一般艤装担当と分かれていて、私は爆撃兵装に属していたので、魚雷や爆弾の懸吊装置の組立圖や一品圖(部品圖)を書いていた。 昭和19年に入ると戦局はますます不利となり太平洋の島々では日本軍の玉砕が相次いで発表されるようになった。潜水艦は、ミッドウェイ海戦後、空母の建造が優先された為、計画が大幅に縮小され最初に起工された5隻のみが建造中であったが、このうち伊403は昭和18年秋工事中止になり解体された。また呉工廠で建造中の伊404は昭和20年8月の完成見込みであったが、空襲激化のため20年6月工事を中断し、付近の島かげに疎開中に爆撃を受けて沈没してしまった。このような母艦の不足を補うため、潜水戦隊旗艦用として建造中の甲型潜水艦を本目的のため改造して晴嵐2機を搭載し、また伊400型は1機増やして3機搭載に改造して建造が進められた。一方晴嵐の生産は昭和19年中に44機、20年には34機が要求されていたが、実際に完成したのは、18年の1機をはじめ19年に10機、20年に入って17機と、総計28機に過ぎなかった。

 昭和19年12月7日の東南海地震により永徳工場は大損害を受け、その後はB29の空襲を避けて疎開計画が実行されたが空襲の激化で生産計画は大きく狂ってしまった。試作設計課は地震のあと、一時昭和区桜山町の昭和国民学校に移転したが、3月には岐阜県の垂井町へ疎開した。課の大部分は垂井国民学校へはいったが、兵艤係は北どなりの府中村の府中国民学校へ発艤係と共に入った。 海軍は昭和19年12月15日、晴嵐の訓練のため第631航空隊を新設した。鹿島で編成されていたのが呉基地に配備され、潜水艦の第一線部隊たる、第六艦隊の指揮下に入った。初めは機数も6機にすぎず予備機もなかったけれど次第に機数も増え昭和20年3月5日には屋代島に移った。潜水艦の方は伊400、401、伊13、14の4隻で、第一潜水隊が編成され、司令には有泉竜之助大佐が着任し、福山の第631空の司令も兼任した。各潜水艦の箇艦訓練も3月末には終わり晴嵐との連合訓練は瀬戸内海西部で激しく行われた。然し戦局の推移と共に初めての計画であったパナマ運河の攻撃は非現実的となり、代わって敵艦隊の前進基地ウルシーを攻撃することになり、8月17日の攻撃を予定してその名も神竜攻撃隊として出撃したが、終戦の為攻撃を中止して内地へ帰還せよとの命令を受け壮図空しく横須賀に帰港した。入港を目前にして司令の有泉大佐は伊401潜の司令室で拳銃で自決した。同艦長の南部伸清少佐は司令の遺体を水葬礼をもって、相模灘の底深く葬った。

 一方愛知航空機は激化する空襲のため、疎開計画を急ぎ、瀬戸の地下工場を初め、北陸方面や養老方面に、機械を運んでいたが、終戦までに疎開工場で完成したものは一つもなかった。私たちの、試作設計課は国民学校の教室を利用して児童の机や椅子は全部外へだし、製図板や机、椅子を入れて仕事をした。宿舎は3キロほど離れたお寺の本堂であったが、私は気の合った同僚と3人で、近くの農家の離れ屋を借りて通勤したので歩いて10分くらいで行けて楽になった。食事は設計課の本部となっていた垂井国民学校から運んでいたようだったが、主食は、丼に八分目ほどの大豆と米が半々くらいの飯に、朝は野菜等の実がわずかに入った味噌汁と沢庵二切くらい、昼と夜はおなじ主食に、野菜の煮付けと言ったようなもので、大豆が消化が悪いためよく下痢を起こした。戦局の悪化とともにB29ばかりか艦載機の来襲も多くなり、遠くの夜空が火災のため赤く染まっていることが度々あった。

 8月になり我々同期の青年学校生徒に防衛召集が命ぜられた。試作設計課全部で20数名が関ヶ原の山腹を、トンネル状に掘り固めた弾薬庫の奥から、木箱に入った銃弾や砲弾を肩に担いで、入り口に停めてあるトラックの荷台に運ぶ作業をしたが、一箱40キロくらいあるものを何百回も、担いで運んだので三日目には肩の皮膚がやぶれて作業ができなくなり宿舎で休養することになってしまった。

 農家出身の者はさすがに力仕事に慣れていて私のようなものはいなかった。7日目になって天皇陛下の放送があるということで外に整列してラジオの声を聞いたが、雑音が多くてさっぱり意味が分からなかった。

 あとで戦争が終わったことを知って、ほっとしたが、今後のことを考えると今までとは違った意味で不安になってきた。

 即日、召集は解除となって支給された半袖の軍衣と地下足袋をもって、垂井へ帰ってきたが仕事は無くなり、毎日青圖の裏を利用して封筒を作っていたが、一カ月ほどで会社は解散と決まり、300円ほどの退職金と一カ月分の給料をもらって名古屋へ帰ってきた。