地蔵島の倉庫の建設と朝鮮人の飯場

                                                  加藤清己さん(瀬戸市)

       幹部宿舎          
                                                                             

川の近くのうちの建物と、大島さんの二階が、責任者や技師の宿舎になっていた。責任者の佐藤鉄夫さんは、終わり頃は戦犯のこともあってか、みえなかったが、技師の中心の岡田さんは、最後の始末までしていかれた。小学校前の一番奥の穴に、2台くらい旋盤が残って居るのに、穴が崩落してしまったと言っておられた。岡田さんには、よく地下工場の方にも連れて行ってもらった。
 

      朝鮮人労働者の飯場           

  隣の材木屋の二階は、朝鮮人の飯場になっていた。80人くらいの朝鮮人が、逃亡を防ぐためか、白い服を着せられ  て、地蔵島のほうで働かされていた。ある時グラマンが撃ってきた。空襲警報になっていたから、朝鮮人たちは、いつも仕事をさせられている、地蔵島の方へ逃げて行った。(うちの前の道を東に行くと工場の入口)
 白い服だから目立つので、私は「伏せろ、伏せろ」と叫んだが、聞かずに逃げて行った。角惣さんの家に、2発撃ち込まれたが、死者は出なかった。  
 

   朝鮮人が昼夜兼行で      

  地蔵島の工場(水野工場第4区)は、小学校前と違って大きく、一抱えもある太い丸太で組んであり、トラックに旋盤を乗せて入ることができ、複雑な形をしていた。カンテラがずっと並んでぶら下げられていて、朝鮮人たちが、昼夜兼行で、つるはしで掘らされていた。ある日、夕方に入ったら、出口がわからなくなって、出るのに朝までかかったこともあった。    

  旋盤は、牛の車のようなものに乗せられ、トラクタ−のようなもので引っ張られて来るのだが、坂道が上がれないので、道の脇に鈎のようなものがついていて、それを引っ張りながら上がって行った。一般の人は近づけなかったから、私たちはこの山で、ヘボをたくさん取ることができた。この工場は、グリスのようなものが入れられていたようで、戦後、みんなが物を取りに入って火事を起こし、長いこと燃えた。                                             

                                                            (注釈 ヘボは、はちの子のこと)

          小学校や宿舎                                                                                  

  小学校の作法室が、工員たちの食事を作るところとなり、大きな釜で、さつまいもなど煮られた。そのほかに、三々五々個人の家が宿舎にされた。学校の前の工場は、天井から水がぼたぼた落ちてくる中で、下に板を敷いて仕事をしていた。