連帯責任で往復ビンタ

                                  吉田益三さん(名古屋市)                                                              

      水野小学校で寝泊まり                                               

  昭和20年4月から6月まで、私たち県立商業学校3年生二百人のうち、八十〜百五十人くらいが、水野小学校に寝泊まりして、南の方の山で穴掘り作業をした。大人4、5人に、私たち11歳の子供5〜10人が一組で、大人が穴を掘ったり、柱を立てたりした。私たちは、基礎コンクリをこねたり、掘った土を運び出したり、アーチ型の屋根に、板を何枚も重ねて打ちつける作業をした。屋根には土をかぶせて、木などを置いてカモフラージュした。工場の大きさは、地下2メートル、地上2、5メートル、幅7〜8メートルもあったか。大人たちは、兵隊か徴用かは分からないが、北海道から来た囚人もいるという噂だった。腹が減って、へびを食べてる人も見た。  板の間の食堂で、米は2割くらいで、芋のつるやフスマの入ったご飯と汁の食事が多かった。    

     女学校の医務室で手術      

   私は、けがをした足が化膿して、女学校の医務室で、軍医に切開手術を受けて、2週間くらい通った。          

   その学校は、海軍の兵舎になっていて、長髪に油をつけて、英語を使う軍士官たちがいて、何か違った世間のようだった。また、リンチされる声も聞え、リンチされた兵隊が、医務室へ運ばれて来た。名古屋空襲の夜は、裏山に上がって眺めた。名古屋電気工業学校か、名古屋工業学校も一緒に来ていたが、家を心配してか、彼らの一部が、無断でうちに帰ったというので、私たちも全員校庭に並ばされた前で、連帯責任の往復ビンタを食らった。6月には工事が完了したのか、帰されて、疎開先の国府宮の近くから矢田の鉄工所へ動員されたが、鉄道も不通で、ほとんど通えなかった。