旋盤を運び込む                加藤  昇さん(瀬戸市)

                                               

      疎開先を交渉                                                                                            
 昭和12年3月、13歳で高等科を卒業。愛知時計電機へ養成工として入社。工員から2級試験に合格し、社員になり、日給12〜13銭から月給90円となる。会社名は「愛知航空機」と変わり、熱田区船方にある組立工場機体第4工作課で、3〜4年間、航空機、機関銃、機雷などを作っていた。昭和20年1月19日か21日、疎開することになり、第4工作は鯖江へ疎開することになったが、私は強引に交渉して、実家に近い丸セ(瀬戸)工場ヘ移った。横山(現、新瀬戸)駅から移ってみると、継子扱いされて、横山駅の貨物置場(現在の新瀬戸駅の駐車場)で、1日2回、船方工場から送られてくる機械の送り先を指示する係をやらされた。機械の種類は、当時新鋭のモ−タ−直結の旋盤、シ−リング、セ−パ−、ボウリングなどで、茨木組の牛方さんが運んだ。日東工業へも運び込んで、戦後愛航の役員が日東の重役になった。水野地区の事務所は、水南小学校で、そこで伝票整理の仕事もした。                             

    内部はぐちゃぐちゃ       
 地下工場内部は、厚さ5センチもある、大きな松材で組まれていて、幅3〜4メ−トルで、入口より広くなっていた。また、ところどころに広い所があった。事務室もあった。地面は土間のままで、左右に素堀りの側溝があったが、天井からしたたり落ちる水滴のため、ぐちゃぐちゃで、人が通行する部分に、板が敷いてある状態だった。地下工場は、1坑、2坑、3坑と呼んだ。機械は、まず2坑から運び込みをはじめ、一列に並べた。     

    青酸カリを使う工場も     

  3坑は、青酸カリを使う熱処理工場だった。4、5坑は主に資材置き場で、4坑は、トンネル内の幅がやや広く、入口はセメントではなかった。穴では、一人が穴を掘り、トロッコを押したりその他の仕事で、1つの坑で、3〜4人が働いていた。朝鮮人は見ていない。貯水槽に水を運び上げて、疲れて、山の上であおむけに寝て月を眺めたこともあった。          

                               

     退職金2百円              
  昭和20年9月2日、全員2百円ずつ退職金をもらって、私らは志賀高原へ遊びに行って、ほとんど全額使ってしまって、30日に5円だけ残して帰ってきた。地下工場内部の材木は、駄知町の馬引きが、抜いて持って行って売ったという。そのための崩落がたくさん起った。

 (12345坑はそれぞれ、米軍のABGCD坑と思われます)