当時15才。 愛知航空機財剣舞材料試験係。7月稲永工場の木造建築が爆撃でふっとんだ時、ひどい死体を片づけた。朝鮮人の少年工が、毎晩のように中庭に整列させられ、精神注入の棒で殴られていた。爆撃後、瀬戸へ来て、公民館の信号から50メ−トル東の納屋で、しごとをするこになっていたが、機械もなく雑談していた。トンネルは秘密で知らなかった。水野小学校の食堂で食事をする時、ドヤドヤと人が来るのでどういう人が来るのか不思議に思っていた。敗戦になった時、納屋を貸してくれていた農家の方が、かぼちゃの甘みだけでぜんざいを作ってくれ、15〜16人でいただきおいしかった。

 名古屋から自転車で通っても私たちが入ることになっていた東(地蔵島)の一番上のトンネルがまだ完成していないので、小学校の前の農家の倉庫でやることもなくすごしていた。トンネルには1、2回入ったが、下のコンクリートもなく、機械を運ぶ係の人が運んでいた。水野小学校でかやをつって寝ていたがシラミがいて、戦争がすんで家に帰ることだけがうれしかった。写真は私たちの組のもので、私は家に帰っていて写っていない。今思い出せる人の名前をのせた。

                       間瀬八郎さん(半田市)