加藤昇さんの証言

                                            91、12、15

養成工       
昭和12年3月、13歳で高等科を卒業。愛知時計電機へ養成工として入社。養成所助教は五百田昇。3年間養成工として勤め、300人中7、8人が社員待遇となる。工員から2級試験に合格し社員になると、日給が12〜3銭から月給90円となる。愛知航空機熱田区船方の組立工場機体第4工作課で、3〜4年間、航空機、機関銃、機雷などを作っていた。

瀬戸へ       

昭和20年2月ころ、疎開することになり、第4工作は鯖江へ行ったが。私は強引に交渉して、実家のある瀬戸丸セ工場ヘ移った。移ってみると継子扱いされて、横山駅の貨物置場(現在  日東の南、名鉄駐車場)で、船方工場から送られてくる機械を、各工場へ送る係をやらされた。

丸セ工場     

所長は米沢さん(愛知時計副所長)、副所長は増田さん(戦後。日東工業の重役となる)

水野地区は水南小学校を本部にして、社員に山口さん、広瀬さんがいた。

水野工場     

地下工場は1坑2坑3坑と呼んだ。熱処理工場もあった。機械はまず2坑から運び込みをはじめた。機械の種類は、旋盤、シ−リング、セ−パ−、ボウリングなど。穴では、一人で穴を掘り、トロッコを押したりその他の仕事で、1坑で3〜4人が働いていた。貯水槽に水を運びあげて疲れて山の上であおむけに寝ていた。朝鮮人は見ていない。他は前に証言したとおり。

終戦         

9月2日、全員200円ずつ退職金をもらって、私らは志賀高原へ遊びに行って、ほとんど全額使ってしまって、31日5円を残して帰ってきた。