水野地下軍需工場の朝鮮人労働者の飯場を経営した  又荘さん(日本名 東松光男さん)と奥さん李徳伊さんの話
                           91/12/15

日本に来る  

 上の学校へ行きたいこうと日本へやって来たが、金もなくなり、瀬戸の工場で働いていた。一度友達と東京で働こうと出かけたが、うまくいかず、金も なくなり、瀬戸なら仕事はあると、16日間歩いて帰ってきた。頼母子講で取った1円50銭の万年筆を売ろうかとも思った が、売らず、3個のにぎり飯を大事に食べて山に寝たり、浜に止めてある船に寝たりした。途中で「拘置所に入れてもらえば 飯も助かる」と思い、警察にいって、嘘をいったが、友達と別々に調べたら話が合わないというので、置いてやらんと追いだ された。                                               

  十三塚町の工場で働いていた時、ミンダナオ島へ行くよう徴用が来た。その工場は鉄を作る時にいれる長石やけい石を掘って、三菱へ入れていたので、会社に頼んで証明書を書いてもらい徴用を逃れた。ミンダナオへ行った友達はみんな死んでしまったから、私も行ってたら死んでいたと思う。家内の弟は桑名で兵隊に、姉は南方へ行っていた。もちろん軍人恩給などは無い。                                  

飯場を始める。
私26歳、家内16歳で結婚していた。隣の的場さんが大倉建設の人で、飯場をやらないかと言うので、19年2月ころ、(私36、家内26歳くらい)家を置いて、今の本山中学の方へ出て、建物やふとんも借りて飯場をすることにした。バラック1階建て板の間の大きな一部屋だけの建物で、ぼろ切れのようなふとんは大倉の組合が貸してくれた。隣は林吉三郎さんの飯場で20人くらいいた。現在、的場さんは死んで、私と同じ歳のおばあさんがいるが好い人だった。
                                             
飯場の生活 

うちは10人の朝鮮人労務者がやって来た。18歳から22歳の独身の人で、連れの人の紹介で来る。炭鉱や徴用を逃れてきた人で、見つかるとえらい事に成る。半殺しになるので名前も変えるし、詳しいことはわからない。私は慶尚南道、その人たちは全羅北道で、発音も全然違い良くわからない。一人増えると何人かの幽霊人口を作って警察に届け出る。10人分といっても3人化4人分しか食べ物がないのでこうするよりしょうがない。   

  ある時警察にさす人がいて、警察が米穀通帳を取り上げたことがあった。「食べずに働けんから明日からみんな働くな」と言ってやったら、大倉組が慌てて警察に怒っていって警察がすぐ返してくれた。                                       

食事       

豆が多いのでもやしにして炒めたりした。豆やこうらいが欲しくて野菜を売りに来る人と物物交換で野菜を手に入れた。暗くなって8時ころ台所の片づけをしていると、後ろから

徴用工が見ているので、早く食べられるように、もやしの汁にご飯を入れてやるとこそっと食べて行ったりした。また10人分の昼の弁当を主人が取りに来る時、余分に持たせて穴の中で腹をへらせている兵隊たちに食べさせてやった。上官に見つかると殴られるので、隠れて食べ、お礼にたばこをくれた。26歳くらいだった奥さんが娘をおぶって飯をたいた。           

           

国民服の配給があった。組合があって本人に配給された。しかしすぐ破れた。汗でべたべたの物を川で洗って干してやった

作業         

作業は朝から夕方までで、夜はなかった。1つの穴に4、5人で穴を掘る。掘る人が2人、トロッコを押す人2人。火薬を使うと山がゆるんで危ないから、手掘りにさせた中央の穴から支線を外側へ向かって掘る。掘った土を運び出す。穴は入口の方が低くなって、ブレ−キを踏んで行って崖下へ土を捨てる。旋盤を置くところは平ら。電信柱程の丸太を斜めに削って、横に渡す木も削ってのせる。横に3寸くらいの板を挟む。この作業も大工でなく穴を掘る人が覚えてやった。入口のコンクリ−トは後でやった。穴を掘るのは朝鮮人だけだったと思う。大内部隊は、海軍のような詰め襟の白い服。

災害、逃亡   

私の飯場では、逃げた人はいない。一人だけ、腰の骨を折る大けがをした人がいた。陶生病院以外病院らしきものはないし保険もないので、病院には連れていかなかった。2〜3月たったら立って仕事もした。保険もなくて地獄のようだった。
鄭さんの仕事 

私は、水野の大島さん(当時50歳くらいで好い人だった)の下で、飯場の労務者をはじめ、他の穴の労務者を合わせ40人ほどの勤務(出勤)を点検して記帳し大倉組に報告する仕事であった。高蔵寺の穴も監督したことがある。40人の中で落盤などで亡くなった人はいなかったと思う。給料をもらって飯場の人に渡す。爆破したら山がゆるんで危ないから爆破を止めてて堀にするように、余り進まなくてもよいから、と朝鮮語で言ってやった。作業している朝鮮人は100人も見なかった。

工場         

西の穴は操業を始めたと思うが、東の穴はそこまで行かなかったと思う。作った部品は夜のうちに三菱に運んだ。

解散         

戦争が終わったので、朝鮮へ帰すように言ってやった。昭和23年に、私たちも帰るつもりで、娘が京城で先生をやっていて引き上げてきた杉浦さんに、家もふとんも売って下関へ行こうとしたが、下の子が熱を出すし、先に行った人が、下関でも1か月以上待たないと釜山行きの船に乗れないというので、また、家を買い戻してここに住み着いてしまった。ここは、県有林を戦争中から耕してきて畑にしたところで、バラックを立て、やがて小さな工場にもしたが、豪雨のとき山崩れで、娘が家ごとつぶされてしまった。名前は東松光男とつけたものだが、同胞のためにも役立ちたいと、朝鮮総連の活動で同胞を話して回ったりした。元の名前にだんだん戻している。