山田  憲明さん(名古屋市)

  私は永徳工場で働いていたが、終戦一年前に瀬戸の穴が半分掘られて、機械を運び込む時点で、こちら(地下工場)へ来て、穴の中で終戦を迎えた。 穴を掘ったのは大内部隊1個大隊と学徒などで、兵隊はにわとりや豚も飼って、自給自足の生活だった。 守山の幼年学校の、15〜16歳の幹部候補生も、おにぎりを持って穴堀の応援に来ていた。守山から歩いてきて、おにぎりだけでは腹が減って気の毒なので、弁当をやったこともある。穴は奥の方がやや高く、入口へ水が流れるように傾斜がつけてあった。穴の中ほどに6〜8畳くらいの事務所が、一組にひとつ作られていた。掘った土には松などかぶせて、アメリカの飛行機に見つからないようにした。 作業を1週間休むと、九州の炭鉱へ送られると噂された。     
 2等兵の鉱山技師という男が、小鳥とト−チランプを持って、杖のようなもので壁面をたたきながら巡回していたが、ある時、その杖で壁をたたいて、「ここは危険だ」と言ったら、次の日に本当にそこが崩れていたので、さすがに鉱山技師だけのことはあると感心した。 落盤はあったけど、けが人はなかった私たちの食事も大変だった。水は、下まで飲みに行かなければならなかった。食事を運ぶ車がないので、毎日、深川から食缶をぶら下げてくる。そこで「だれか永徳工場へ行って、大八車を借りてきたら、有給休暇をやる」
 と言われて、5組ほど出かけたが、大八車を持ってくるのに成功したのは私たちだけだった。
    深川神社の近くの給食施設では、3人ほどのまかない婦が働いていた。 私たちは、工場の2階を宿舎にしていたが、しらみがひどかった  。 9月には兵隊に行くことになっていたが、終戦になって実際はほっとした。