松の木でカモフラ−ジュ
                             大場 洋一さん(名古屋市)   
 愛知航空機の事務所は東野牧場だった。終戦までの半年間、私を含めた愛知工業専門学校機械科4人(現在68〜72歳)は瀬戸工場で働いた。 愛知工専の学生が班長をして、班員は新潟工業学校の7〜8人であった。 菱野の工場は永徳工場の疎開工場で、『彗星』の胴体を作る工場であったが、準備段階で終わった。 工場の中には、胴体が3つぐらい置ける治具があった。工場の奥行きは40m位だったと思う。 私たちの仕事は、工場の屋根の上に土を載せ、そこに草を移植し、近くの山から取ってきた松を植えて、川から桶で水をくんできてかけるのだが、そんなことをしても松はすぐ枯れるので、毎日同じことの繰り返しだった。 私たちの班の担当は、工場一棟だけだった。 芸者の「ケンバン」といわれるところで、動員されたものが数十人で食事をした。瀬戸工場に来る前は、永徳工場でネジ締めをした