母屋を宿舎に取られ鶏小屋を改造して住む。                                                                  

                                寺島末松さん(瀬戸市)

  私たちは、青池を借り、その水で田を作り、果樹をやっていた。鶏の養育は、餌がなくて出来なくなっていた。十九年に役場へ呼びだされ、大内部隊長から、「大工の宿舎としてお前の家を取り上げる」と言い渡され、私たちは鶏小屋を改造して住んだ。冬には雪が舞い込んだ。二階は女子工員の宿舎ということだったが、女子工員は入らなかった。道路は川沿いに東野牧場へ出るものが一本あるだけで、大内部隊長は、この道の通行禁止を命じた。川の北側に別の道を作ると言ったが、私は、作りたての道など輪が埋まって通れないから困ると言った。結局その道は作られなかった。今の今林川は、当時雨が降ると川になる川で、普段は広い川原であった。(ス)に堤があったが、壊れて水は溜らず、雨水はその北側を流れていた。川に並行して、(キ)、(ク)の工場が早く作られた。(ケ)の工場は、他の工場の2倍ほどの大きさであったが、完成しない内に終戦になった。   一つの工場を作るのに、50人くらいの人が働いていた。工場は、アーチの上に、縦に板を打ちつけ、その上に、湾曲させて板を打ちつけた。2メートルの長さの板を7枚くらい打ったので、入口の径は、15メートルくらいと思う。奥行きは40メートルくらい。この上に油紙をひき、土で覆った。現在のミソノピアは、当時青池で水面で幅80メートル奥行き110メートルくらいで、締め切り堤のたもとに、コンプレッサーが覆いもなく据えつけられた。(コ) 青池の上段に、2棟の未完成の工場、(ア)、(イ)があった。瀬戸西高校のある場所は、尾根道を狐がコンコンと鳴いて通る、高い山だった。この二つの谷に(ウ)、(エ)の工場が建てられた。現在の貯水池は、掘り下げて作られたが、当時も南を向いた谷間で、その両側を削って、(オ)、(カ)の工場が作られた。削った土で、工場の反対側を覆った。ある時、弱そうな人が、板1枚持ってふらふらしていた。よく見ると女学生で、先生が、「2人で持ちなさい」と叫んでいた。ある日、アメリカの飛行機が低空でやって来た。逃げる間もなかった。機銃掃射の弾が大工さんの顔をかすめた。風圧で、梨にかぶせたばかりの紙袋がみんな破れた。私は動員で、幡山中学校の南の天神山に、高射砲陣地を掘らされた。高射砲といっても、木で作ったにせもので、3台据えつけた。井上さんの家も、明け渡すことになっていたが、その前に戦争が終った。  戦後、アメリカ軍が作業員を連れてきて、大松の下の、シの河原に飛行機(少なくとも1機は胴と翼が組み立てられていた)を引き出して、ハンマーなどで壊していた。毎晩、多くの人が資材を盗りに来た。わたしは何もとらなかった。