十 五
棟 五 十 人
の 三 倍 く
ら い か 、本部は東野牧場
渥美寿一さん(当時 次長 名古屋市)
昭和19年6月か7月に瀬戸に疎開した。
覆土地区(菱野の工場)の区長は朝日出さん、私が次長。 はじめは自転車で名古屋から通っていた。
家族で瀬戸へ移ったのは終戦の1ヶ月前だった。本部が置かれた東野牧場に寝泊りして、陶磁器組合に置かれた本部と連絡を取っていた。瀬戸の疎開工場の長は、故増田正文さんで、陶磁器組合の2階にいた。工場は15棟で、出口に近いところほど大きかった。
渥美さんが帰られて、私が玉音放送について話をした時は、50〜60人くらいだったから、それまではその2〜3倍だったろうか。
県道沿いに、海軍の監督たちの宿舎も建ててやった。監督たちは名古屋にいる時は、棒を持って、労働者をたたいて廻り、いばっていた。工事中は知らないが、私たちが行ってからは、米軍の攻撃を含めても、犠牲者は出ていない。私自身も、一度、P51機から撃たれて、側溝に飛び込んで助かった。
部品などの搬送は、馬車で行った。完成した飛行機はなかったと思う。
工場の後始末をして、21年2月に進駐軍に引き渡して、帰って来た。水野工場のことは鳥取に帰ったみな南前栄さん(故人)が知っている。