山口きぬさん(当時 検査部 碧南市)      
         

  私は、稲永の永徳第一工場(工場長朝日出さん)の胴体部品検査場に勤めていた。第一工場には他に、熱処理、板金、仕上、塗装と事務があり、多くの工員や動員学徒が働いていた。昭和20年6月ころ、瀬戸に移った。19歳だった。瀬戸では、萩原さんの工場と同じ位置にあったようだが、私のほうはトンネルだった。入口が雑木林の方を向いていたのと、左の方に大きな池があったことはよく覚えている。当時は、徴用工以外はほとんど通勤の人が多く、私もその仲間で、一日の内半分は、疎開先の西尾からの通勤時間に取られ、兵器の増産など出来なかった。瀬戸駅を降りて、右手の橋で瀬戸川を渡り、友達4、5人で雑木林の中を歩いて通勤した。水野駅まで歩いたこともある。印象に残っているのは、交通不便の中、警戒警報に会い、恐ろしい思いをした通勤と、薄暗い地下室の作業だけ。トンネルの中は、胴体に使う部品を検査する仕事台(ジョウハン)を据え付けるところだけコンクリ−トで、あとは土間になっていて、上からしずくが落ちていた。私は図面を貸し出す係だったが、ほとんど仕事は出来ず、しずくをふき取る掃除ばかりやっていた。