胴体にベニヤも

                                                                                           

                            萩原  博さん(静岡市)                                                   

                                                                                                   

   私は、静岡からの徴用工第一陣五百人の一員として、昭和16年10月9日に愛知時計電機株式会社に入った。(当時19歳)         

   地元のほか、岐阜県や和歌山県から来ていた。その後、会社は「愛知航空機」となった。私は、胴体組立工で、高橋指導員以下十人くらいで一組だった。組には、朝鮮から来た少年工もいた。東南海地震と集中爆撃で、工場が機能しなくなって、昭和20年4月か5月ごろ瀬戸の穴に移った。宿舎は瀬戸駅の近くにあって、駅から右に曲がって、橋を渡って、山へ登って工場へ行った。山の凹地を屋根で覆った工場で、私たちの組で10機以上の「彗星」の胴体を組み立てた。「彗星」は、2人乗りの艦載機で、胴体は、エンジンを除いて尾翼まで5〜6メ−トルだった。よそで作られて来た部品やジュラルミンの板を、エア−ハンマ−やドリル、セーパー、レベルなどをつかって、フレームに取りつける仕事をしたが、材料がなくなると胴体の下側は、ベニヤをあてがうというひどいものだった。組み立てた胴体は、人目につかないように、夜中に牛車に積んで、挙母に運ばれた。エンジンは三菱で作り、初め空冷であったが、のち水冷になった。私の優秀な友達は、特攻隊に入り、「彗星」に爆弾と片道だけの燃料を積んで突っ込まされた。いざ乗ろうとしたら、燃料がなくて生き永らえた者もいる。私が泊まっていた陶器工場の2階は、のみや南京虫でかゆくてたまらず、食事もひどいもので、豆やじゃがいもばかり。腹が減ってしょうがないので、山を越えて、食べ物をもらいに行ったり、畑のじゃがいもを盗んで食べた。
 愛知時計は徴用工を500人ぐらい雇っていていた。船方工場は昭和19年12月8日の東南海地震で大きな打撃を受けた。飛行機組立工場は大変細かな調整が必要で、地震のために治具がだめになってしまった。胴体の爆弾を抱えるところはベニヤ板のところもあった。
船方へいったのは19歳のときで日当は1円10銭。私は朝鮮人の少年30人を指導していた。朝鮮人の少年たちはほとんど同じ地域の出身だから強制連行だと思う。
 瀬戸では菱野工場で高山から来られた高橋さん(当時40歳)と二人で働いた。