日本刀をもって

               朝日出武夫さん

                (当時工場長 茨城県竜ケ崎市 故人)

東野牧場を事務所に措りた。そこから池のあるところまでの谷あいに海軍の施設部隊が
作ってくれたいくつがの覆土工場でようやく作業開始というところで終戦になった。広場
でみんなで玉音放送を聞いた。東野さんをはじめ名前は忘れたが見の方の何軒かの農家の
方々にはいろいろとお世話になった。
私は三人の子供のうち上の二人は郷里の方に預け妻と子供・人で宝泉寺の書院の1室を
借りてそこから自転車で東野牧場まで通った。もう1室には、女子挺身隊が入っていた。
終戦の1カ月くらい前には妻と子供を郷里に帰し、私は単身で東野牧場の事務所に戻っ
たが、そのおり自宅から日木刀一振りリュックに入れて瀬戸まで帰った。ベつにそのときはそれほど悲壮感はなかったが、今になって思えば瀬戸の山奥で討ち死にする覚悟だったと感無量だ。