中仙道自歩記其ノ七 2002.03.09
今回の出発地点はJ穂積駅からです(岐阜駅から米原に向かって2つ目)。前回六回の終了地点の川渡宿は、この穂積駅から北へ30分ほど歩いた所。もちろん、その場まで戻ります。
の木なんの木?でかいです。中仙道の歴史を眺めてきたんでしょうね・・・。
「みえじ」宿。美江寺という寺は、岐阜市内にありますが、元々はここにあったそうな・・・。もちろん美江寺観音があります。川渡宿の次の宿場です。
右へ行くと、「赤坂宿」。左へ行くと「墨俣」・・・秀吉で有名な一夜城のあるとこねw
中央にうっすらと伊吹山。巣南中学の前から。濃尾平野の西に当たります。兎に角まったいら・・・私のような山育ちの人間には、見渡しが良すぎて、視界に変化がまったく無い・・・疲れますw。
木曾三川のひとつ揖斐川は、昔はここになかった。ってことは今の揖斐川は治水によって流れを変えた川なんですね。写真のもっと右(西)に本流がありました。揖斐川が流れるここら一帯は、昔本流支流ごちゃごちゃの湿地帯で、大変だったでしょうね・・・。川の土手が兎に角高い。

これで、木曾三川を渡り切りました。木曽川は、太田宿手前の太田橋、長良川は「小紅の渡し」で船で、揖斐川は今回の鷲田橋。
揖斐川にかかる鷲田橋の上。伊吹山が大分近くなった。

前方の黒い人影(見えますかね?)。相棒のもりたん。話掛けても答えず、さっささっさと歩いて行ってしまう。そして絶対に車道側を、張り付くように歩く。

何故?

彼は強度の高所恐怖症で、陸橋でも走って渡ります。
( ̄m ̄ ふふ。
橋を渡って集落に入っていくと、「呂久の渡し」。

「渡し」の船着場跡が、今の揖斐川にあると思うのは素人さん。私も橋を渡りながら、「ここに渡しがあったんだろうな」と言っておりました。ところが「渡し」の船着場跡は、現揖斐川西側の呂久という地域の町並みのど真ん中にあります。つまり、現在の揖斐川は昔の揖斐川にあらず。写真の図の青い所が今の揖斐川(上の写真)、白いところが昔の揖斐川で、曲がりの頂点が「呂久の渡し」があったところ。

で、「渡し」が町の真ん中ある訳です。
「呂久の渡し」にも「和宮」関連碑がある。もちろん、皇女和宮が、お渡りになられた訳ですね。
「大垣輪中」の堤防の上にある道標。ここら当たりで、中仙道を見失う。この道標までは完璧だったのに・・・
「大垣輪中」上から見る伊吹山。「輪中」ってわかりますよね。川の中州を高い堤防で囲ってしまうものです。でも、この反対側にある川は、さほど大きな川でもなく、3階建てに相当する程の堤防が必要だったのか?と思ってしまいます。でも、やっぱ当時の「川」は怖かったのでしょうね・・・。
「赤坂宿」の赤坂港の灯台・・・?岐阜県はもちろん海のない県ですので、海の灯台ではありません。川の灯台です。昔は木製でしたでしょうが、現在はもちろん鉄筋です。写真の左側に赤坂港がありました。

赤坂宿のあった「美濃赤坂」は、大垣市の北部にあります。大きな町ではありませんが、歴史を感じさせる雰囲気のいい町です。
「赤坂港」の船着場跡・・・?

ちょっと狭くない?と思うのは普通です。噴水でデコレイトされてるますが、港とはいい難い。こんな狭い水路にはいくらなんでも船は行き来できない。「赤坂港」は抗瀬川(元々は抗瀬川は揖斐川の本流だったそうです)にある港なんですが、以前はここに抗瀬川があったんですが、今は治水で写真右(東)の10m先に抗瀬川は流れています。昔はここに500艘の船が溢れかえって、にぎやかだったそうです。写真左(西)に1919年(大正8年鉄道が出来て廃れていきました。
「赤坂宿」本陣跡。木塚邸跡。

この横に、現在の木塚氏本宅(林業)有り。写真に写せないほどに立派(呆れるほどの敷地、お屋敷)、国の有形文化財建造物(林業が本業ならね・・・)。
車も少ない中山道を進むと、材木店の倉庫の窓に・・・幻の「水原弘」のスチール看板。どうよ!

これに「ぐっ」とくる方は、歳が分かりますw


スチール看板マニアってんが居るそうで、これは堪らん品物ですよねw
「垂井宿」から見る伊吹山。ぐっと近くになった。
後5キロ先に古戦場の関が原があります。そこまで行く予定でしたがもう歩けません。ごめんちゃい。

JR垂井駅から岐阜駅で途中下車。駅ビルに温泉があるんです。その名は「湯の国ジャポン」。お店のコピー「地下1300mから悠久の時をかけて湧き出た「駅の秘湯」。スポーツクラブ「フライツァイト岐阜」に併設。この倶楽部はあの「コナミ」経営です。ちょい高い入浴料千円す。湯上りのビールとうどんで、帰路に着く。
本日は20キロ弱。
Annex
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