宿場の基礎知識
大湫宿(おおくて)
大井宿(おおい)
中津川宿(なかつがわ)
落合宿(おちあい) 
細久手宿(ほそくて)
御嵩宿(みたけ)
伏見宿(ふしみ)
太田宿(おおた)
鵜沼宿(うぬま)
東海道とともに江戸時代の五街道の一つとなった中山道は、この時初めて制定された街道というわけではなく、その前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な街道でもあった。この東山道というのは、文武天皇の頃(697-707)で「近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥」の8国を指し、和銅5年(712)にはこれに出羽が加えられ、宝亀2年(771)には武蔵がこれから外され東海道に移された。

このように古くは国々を集めての総称だったのだが、その東山道が道の名としても用いられるようになったのは、おそらくは孝徳天皇の大化元年(645)に始まる大化の改新以降のことではないだろうか。この東山道は、しかし温暖な太平洋岸に面していたために次第に整備され始めた東海道に対し、しばらくは裏道的な存在として生きてきた。やがて、戦国時代に入ると、群雄割拠の時代には小田原北条氏が倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の六宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・薮原・福島の七宿は武田氏が伝馬の継立を行っているなど、東山道から中山道への移行期にはすでに宿駅が設けられ始めていた。

こうして天正18年に至ると、8月1日に徳川家康の江戸入りがあり、以来10年を経て慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、事実上天下の兵馬の権を握った家康がまず手をつけたのが道路の整備であった。そして同6年の彦坂元正等による東海道の巡視を基にして五十三次が定められ、以来中山道・甲州道中・奥州道中などを幕府直轄下の街道と定め、万治2年(1659)には大目付高木伊勢守守久を初代の道中奉行とし、その管轄下に日光道中を含めた五街道を置いたのだった。さてこうして発展した中山道は、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として生き続けた。幕府の旗本などで大阪勤番の者は、往路は東海道、帰路は中山道を利用する例が多く、また東海道のように河留めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による困難がほとんどない故に女性の道中に好まれることも多く、幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用したのはその良い例といえよう。

日本橋→板橋→蕨→ 浦和→大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷→深谷→本庄→新町→倉賀野→高崎→板鼻 →安中→松井田→坂本→軽井沢→沓掛→追分→小田井→岩村田→塩名田→八幡→望月→芦田→長久保 →和田→ 下諏訪→塩尻→洗馬→本山→贄川→奈良井→薮原→宮ノ越→福島→上松→須原→野尻→
三留野→妻籠→馬籠→落→中津川→大井→大湫→細久手→御嵩→伏見→太田→鵜沼→加納→河渡→ 美江寺→赤坂→垂井→関ヶ原→今須→柏原→醒ヶ井→番場→鳥居本→三条大橋


町並み紀行:岐阜県(美濃・飛騨路)参考

大湫宿(おおくて) 現在瑞浪市釜戸町大湫

大湫宿は、海抜510メートルの山中に発達した宿場で、南北に一筋に延び、その長さは350メートル余り(3町15間)。慶長9年(1604)に設置され、江戸時代末期の文久元年(1861)の記録によると、戸数86軒を数え、うち45軒が旅籠を営んでおり、隣の細久手宿と比べると、町並みはやや短いものの、戸数や旅籠の数は多い宿場であった。

大井宿(恵那市)から山道となる中山道は、十三峠を越え、宗昌寺を経て、桝形を左に折れて大湫宿へと入る。大湫小学校と支所の建つあたりは、昔の本陣跡で、小学校校庭にはこの本陣を利用した和ノ宮の歌碑が立っている。宿場のほぼ中央の門構えの保々和男家は、脇本陣を勤めた家。脇本陣の隣は問屋場跡であるが、今は何も残っていない。

宿場内には、格子造りの古い家並みが残されている。旧街道の面影を色濃く伝えている。街道の西側の山麓には、北から白山神社、大湫神明神社、観音堂が建っている。大湫神明神社には、樹齢1200年とも言われる高さ60メートル、目通り11メートルの大杉がそびえたつ。神明神社境内からは、「神明元泉」と呼ばれる清水が湧き、昔は旅人の飲み水として使われていたという。境内には、竿に「秋葉山」「宿中安全」と刻まれた文化4年(1807)の常夜灯がある。

宿場の南端は高札場跡で、ここから観音堂参道が延びる。観音堂の本尊は、はじめ神明神社にまつられていたが、享保6年(1721)に、新たに観音堂を建てて、まつったものである。現在の建物は、文政7年(1824)の大火で類焼し、弘化4年(1847)に再建されたものである。小ぶりながら、軒裏に凝った木組みが施されている。境内には12基の石塔と、数基の墓石が並んでいる。石塔の種類は、地蔵菩薩2基、大乗妙典千部供養塔3基(1基は嘉永3年<1850>、他の2基は年代不明)、六字名号塔2基(享保6年<1721>のものと、寛延元年<1748>に念仏講中が建立したもの)、経王石写塔(宝暦7年<1757>)、心経千部書写塔(安政3年<1856>)、廻国供養塔(寛延4年<1751>)、青面金剛を刻んだ庚申塔(宝暦13年<1763>)、芭蕉句碑(寛政7年<1795>「花ざかり、山は日ごろの、あさぼらけ」)である。観音堂境内から、南東には整然と区画整理された水田が見わたたせる。宿場の時代を終えると、大湫宿は、この水田を生活の基盤にした穏やかで、こじんまりとした農村に転じている。

大井宿(おおい) 現在恵那市大井町

大井宿は、恵那駅の南東に発達する。駅前通りを南に100メートル余り歩き、左に折れ、阿木川大井橋を渡ると、大井宿だ。宿場は、西から橋場、茶屋場、竪町、本町、横町の5町に分かれ、それぞれの町は6カ所の桝形で区切られているため、街道は複雑に折れ曲がっている。江戸時代後期の天保14年(1843)の大井宿の家数は110軒、人口は466人を数え、旅籠41軒、茶屋8軒があった。講宿や近江商人の定宿となっていた旅籠もあり、茶屋ではワラジ・蓑・砂糖餅・果物などを売っていたという。宿場の長さは、710メートル(6丁)ほどであった。

横町のつきあたりの延寿院薬師堂を右に折れ、横町川に架かる上横橋を渡ると、五砂坂と呼ばれる登坂にさしかかる。このあたりが宿場の入口であったらしく、高札場が復元されている。高札場を過ぎ、寺坂を登ると、菅原神社入口に、石塔10基、五輪塔3基、墓石2基が集まっている。石塔の種類は、六字
名号塔4基(最古のものは延宝7年<1679>)、地蔵2基、観音石塔(延宝7年)、馬頭観音、庚申塔、地蔵唱号供養塔である。地蔵一体の光背には「痰切」と刻まれている。痰を切る地蔵として庶民信仰があったのであろうか。また、これらの石塔群に少し離れて、1体の馬頭観音が街道沿いにまつられている。文政9年(1826)に「上宿中」が奉納したもので、8名の女性の名前が記されいる。

市街地は大井宿を母体に広がり、恵那市と名前を変えた。ところが、そのもととなる宿場には、今なお庄屋を勤めた家などが古い構えを残し、旧家がどっしりと根をおろしていることが分かる。

中津川宿(なかつがわ) 現在中津川市
山がちな信濃路から美濃に入り、広々とした盆地がはじめてひらけるのが中津川だ。また、中津川は、現代の中山道ともいえる国道19号と、飛騨へ向かう道の分岐点の街でもある。市街地は、中津川駅の南側、そして、中津川という名の河川の東に広がっている。

旧街道は、中津川駅前通りを南に約300メートルほど歩き、右に折れた新町、本町などの通りである。道幅は広くない。欅並木の新町通り(新町けやきモール)を東に行き、四ツ目橋を渡ると、旧街道情緒を残す本町通りとなる。四ツ目橋の近くには、中津川宿の案内板が出ている。江戸時代後期の中津川宿は、家数175軒、人口1,230人を数える中山道の中で大規模な宿場であった。宿場の長さは、約1キロ(10丁7間)に及び、東から淀川町、新町、本町、横町、下町が宿場の範囲であった。

宿場の中心は、本町のNTT中津川営業所のビルが建つ場所あたりで、 NTTは脇本陣跡の敷地を利用している。また、その前の駐車場は、本陣があった場所である。本町で古い構えを残すのは、旧肥田家と、仕舞屋の岩田家で、いずれもウダツを上げた造りだ。旧肥田家は、享保3年(1718)から明治5年まで庄屋を勤めた家である。

本町の西角を左に折れると横町に入る。横町では、旧中川家、旧白木屋が、やはりウダツを上げている。旧中川家は江戸時代庄屋を勤めた家であったが、明治期には原家が呉服屋を営み、大正時代には薪炭・荒物商をおこない、現在は、左半分が太田薬局、右半分が吉村屋履物店の店舗になっている。旧白木屋は、天保13年(1842)に遠山家が建てた家屋である。明治末期に遠山氏はここを離れ、大正時代に白木屋がここで足袋の製造をはじめた。現在、ヤマザキパン白木屋の看板が出ているが、訪ねたときに店は閉まっていた。横町はごく短い町並みであり、本町に増して旧街道情緒を残している。

横町のつきあたりを右に折れると、下町となる。下町には「恵那山」蔵元の間酒造が店を構える。格子造りの建物は堂々とし、ウダツが四つも上がっていて圧巻である。軒下には、杉林を吊るし、店舗の右端には土蔵もあって、付近はまことに古風な町並みとなっている。

中津川宿から駒場の街村を通りぬけ、小手ノ木坂を登ると、20基ほどの石塔が立ち並ぶ場所に出る。石塔の種類は、地蔵菩薩2基、馬頭観音2基、六字名号塔2基(1基は文政8年<1825>)、如意輪観音(念仏供養塔)、西国三十三所巡拝供養塔(元禄8年<1695>)、大乗妙典供養塔(宝永6年<1709>)、大日大国霊場塔、道祖神(文化13年<1816>、苗木道の道標を兼ねる)、そして墓石などとなっている。

落合宿(おちあい) 現在中津川市落合

木曽路から美濃路にはいる最初の宿場が落合宿だ。宿場は、落合川が木曽川に落ち合うあたりに位置する。木曽路馬籠宿から十曲峠を越える山道は、この落合宿まで続いているが、ちょうどこのあたりで中津川の盆地がひらける。町並みは、落合川左岸の河岸段丘に、南東から北西に向けて一筋に発達をみせる。

宿場の長さは、約390メートル(3丁35間)、南東側(江戸方)に桝形が残っている。桝形跡には、寛政4年(1792)の常夜灯が立っている。本陣界隈にある古い造りの民家には、島崎藤村『夜明け前』の稲葉屋のモデルとなった鈴木禎吉家がある。なお、鈴木禎吉家は、はじめ酒造業を営み、のちに金融業、大正時代は蚕種業をなりわいとした家である。

落合は、山中ながらも市役所の支所、農協、小学校、中学校などがひととおり集まり、小規模ながら町場をなしている。



細久手宿(ほそくて) 現在瑞浪市日吉町細久手

細久手宿は、海抜420メートルの山中に発達した宿場だ。宿は、東北から南西方向に緩い下り坂が一筋に延び、その長さは400メートル余り(3町45間)。細久手宿は、慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、戸数65軒を数え、うち24軒が旅籠を営んでいた。

 宿場の北東端には、庚申堂がある。方形瓦葺きの小さなお堂で、境内に7基の石塔が立てられている。六字名号塔3基、地蔵菩薩2基、聖観世音菩薩、如意輪観音である。六字名号塔は、寛文年間(1661〜73)のもの、享保5年(1720)のもの、そしてあと1基は年代が刻まれていないが念仏講中が奉納したものである。

 庚申堂の下は高札場跡であるが、当時をしのぶものは何も残されていない。宿場のほぼ中央の細久手郵便局の東隣は、尾張藩本陣を勤めた大黒屋が古い構えを残す。ウダツの上がった建物で、今も旅館を続けている。本陣跡は、郵便局の西の小田井蝶家で、酒・米・食料品店を営んでいる。本陣の前は、脇本陣跡地で、草に埋もれて土蔵が1棟残っている。格子造りの古い家は、小木曽鏡家、遠山成男家、大山勇家などが残る程度で、あとの家々は新しく建て変わっている。

 宿場の南西端には日吉愛宕神社がまつられている。境内には「金毘羅山大権現」と刻んだ石塔がたっている。天保14年(1843)に山金氏が願主となり「若中」が取持として建立したものである。

 細久手宿は、屋敷跡の空き地が目立ち、櫛の歯が抜けたような感じの町並みとなっている。町並み景観は、宿場というよりかむしろ、山中の一農村といった感じのところだ。


御嵩宿(みたけ) 現在加茂郡御嵩町(産廃で全国的に有名です)

細久手宿から山中の道を経て、街道が平地にさしかかると、御嵩宿となる。御嵩の町は、御嵩富士と呼ばれる山の南に東西に細長く発達し、その南には可児川が流れている。

 名鉄御嵩駅から東に一筋に延びる道筋が、御嵩宿が置かれた場所だ。国道21号からそれているため、車の通りは激しくない。駅前には、願興寺蟹薬師が大きな本堂を構え、東に進むと御嵩町郷土館がある。この隣が御嵩宿本陣で、門などが残されている。本陣の東には、みたけ手織工房、安藤福美家、田中勇夫家などが古い構えを残している。いずれの家も間口が6間以上ある大規模な塗込造りで、2階に袖壁がついた造りである。宿場の面影を残すのは、本陣界隈の一角で、あとは新しい町並みに変わっている


伏見宿(ふしみ) 現在加茂郡御嵩町(名鉄の駅名は「明智」です)

御嵩から国道21号を西に進むと、伏見宿にはいる。伏見は、中山道と八百津方面に向かう道が交じわる場所に位置する宿場だ。江戸時代の宿場は、国道21号となっているため、ひっきりなしに車が通る。古い民家は、伏見交差点西の宇野裕之家、可児貞夫家など、わずかに残るにすぎない。これらの家は、塗込造りで虫籠窓があり、2階に袖壁がついた造りである。

 御嵩宿の北には、木曽川の湊であった新村湊がある。現在の町名でいうと新町にあたる。新村湊付近には、細い道沿いに10軒前後の人家が並んでいるが、町場とはなっていない。日比野弘文家が、湊があったころ問屋を営んだ家という。屋敷には土蔵があったというが、今は壊されて車庫になっている。日比野家の竹薮から湊に下りる道があったというが、今は草に埋もれて廃道となってしまった。近所の人に聞くと、新村湊には、笠松方面から物資が入り、地元の荷物はもとより土岐・瑞浪方面からの荷物も積み出していたという。また、土地の人が伊勢参りに行くときは、この湊から船で行ったともいう。今、湊跡は見るかげもなくなっている。

太田宿(おおた) 現在美濃加茂市(JRの駅名は「美濃太田」です。

美濃太田は、木曽川右岸の盆地に町がひらける。伏見宿から西に向かう中山道は、太田の渡しを越えて太田宿に入った。太田橋の西側が、太田の渡しの跡だ。

 美濃加茂市役所南の木曽川べりに祐泉寺という寺院があるが、この寺から西に延びる通りが、太田宿だ。宿場は、東から上町、中町、下町と続く。旧街道は、下町で南に曲がり、庚申堂を経て、再び西に折れる。

 中町のほぼ中央の街道の南側には、脇本陣林家が屋敷を構える。四つのウダツが上がった見事な建築で、国重文に指定されている。母屋は、明和6年(1769)の建築で、母屋の隣にある表門は、天保2年(1831)に建てられた。林家は、脇本陣とともに太田村の庄屋、また尾張藩勘定所の御用達を勤めた旧家で、江戸時代は味噌・タマリを造っていた(脇本陣は、火・水に公開)。

 脇本陣林家の西向かいの福田家は、本陣を勤めた家で、わずかに門のみ残している。林家の東向かいには、「御代桜」の醸造元渡辺本店が店舗と酒蔵を構える。店は古い建物ではないが、酒蔵は風情がある。これらの家々をのぞいては、古い町家はあまり残っていないが、町並みの中央に堂々たる脇本陣や酒蔵があるため、風格のある町という印象を受ける。

 宿場入口にある祐泉寺は、文明6年(1474)に開かれたといわれる臨済宗の古刹で、境内はあまり広くはないが手入れがいきとどいている。傍らにまつられた稲荷社の前には、播隆上人の墓と六字名号塔、芭蕉句碑、志賀重昂の墓がある。文政11年(1828)に槍ケ岳を開いた播隆上人は、天保11年(1840)に太田宿脇本陣でその生涯をとじた。その墓が立てられたのがここ祐泉寺である。卵塔型の墓である。その横にある「南無阿弥陀仏」と力強い書体で刻んだ六字名号塔は、播隆上人の書いたもので、石塔は天保5年(1834)に建立されている。芭蕉句碑には、「春なれや、名もなき山の、朝かすみ」と記されている。また、志賀重昂は、大正2年に、美濃太田から犬山にいたる木曽川の流れを「日本ライン」と命名し、世に広めた地理学者で、昭和2年に亡くなっている。


鵜沼宿(うぬま) 現在各務原市(JRの駅名は「鵜沼」です)

鵜沼は古代から、交通、経済の要衝として栄えた土地で県下屈指の古墳や歴史を秘めた城跡、神社仏閣が残っています。特に交通関係では、古代・中世の東山道各務駅や宇留間市の立った所、近世では中山道「鵜沼宿」として、宿駅制度の拠点であり、人と物の集散地であったようです。碑の建つ現在地は 「鵜沼宿」 の中心であり、脇本陣坂井家の跡地で、本陣の桜井家に隣接しています。

宿場として、西町と東町が正式に中山道鵜沼宿として決定されたのが、慶安四年(1651年)で中山道六九次の江戸から五三番目の宿場で約百里三十町(396km)です。太田宿から木曽谷最後の山路 「うとう峠」 の難所を越えて二里九町(約9km)、加納宿まで広大な「各務野」 を越え, 会の宿(立場)の新加納を経て四里七町(約17km)です。旅篭の数は年代によって増減はありますが、天保十四年には 大八軒・中七軒・小十軒で人口246人家数六八件であったようです。本陣は桜井家、脇本陣は野口家と坂井家で交替で勤め問屋も兼ねていたようです。
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